ブタブタ

アメリカン・サイコのブタブタのネタバレレビュー・内容・結末

アメリカン・サイコ(2000年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

クリスチャン・ベール主演のチャンベールバトルではなくチャンベールサイコ。
昼はヤッピー夜は殺人鬼。
内容はこの1文だけなのですが、自分は原作が好きで喜んで映画を見に行ったクチなので少しガッカリしたと言いいますか(←でたー!「原作とちがーう」(笑))
内容はほぼそのままなのですが主人公パトリック・ベイトマンのキャラクターは原作・映画では全く違っていました。
原作のベイトマンが殺人に及ぶ動機は結論から言うと「何にも無い」
しいて言えば暇だから。
ヤッピー仲間との何処のレストランに予約と取れるか、何処の美容院でカットしてるか、何処のブランドを着てるか、そして遊戯王みたいな名刺対決もそれら全てが暇潰し。
金と暇は有り余って他にやる事が無いのでやってるだけであって殺人もそれと全く同じレベルで行われていてベイトマンの内なる衝動だとか殺人をせずにいられない性癖だとかではないのですね。
飽く迄暇潰し、実際には何の興味もない。
ベイトマンの頭も心もカラッポで何処までも真っ白な何も無い空間が広がっているだけの虚無・無間地獄とでも言いますか。
だからこそ救い難い絶望と恐怖を感じてそれがこの小説を他の殺人鬼モノ(?)とは一線を画してる点なのですが。
翻って映画版はと言いますと、この映画のスタッフ、脚本家・監督はまともな精神と常識を持っているのだと感じました。
見てる観客にちゃんと理解出来る様にこの作品を作ったのだと思います。
原作そのままだと全く理解出来ない作品になったと思うので。
ベイトマンが殺人に及ぶ動機も、自分は予約を取れないレストランの予約を奴は取れてる→殺そう。
自分よりカッコイイ名刺を作った→殺そう。
と小学生レベルの物凄くしょうもない動機ですが一応は理由があります。
1番笑ったのが名刺対決で負けた相手をトイレで後ろから首締めて殺そうとしたら、別の意味で襲おうとしてると勘違いされ、実は男性に興味がある人だと告白され逆に襲われそうになるシーン。
完全に誤解されてしまい
「パトリック、パーティの時僕を見ていたねキュ━.+゚*(о゚д゚о)*゚+.━ン☆」
「パトリック君が欲しい!君も僕を求めている!(๑♡∀♡๑)」
(どうすんだパトリック…(笑))
この映画は夢オチ・妄想オチでは?と言う感想も散見します。
確かに奇妙に思えるシーンは色々あってポール・アレン(ジャレット・レト)を殺し彼の部屋を殺人のアジトに使っていて、その部屋が新聞広告で売りに出されてるのを知り「これはマズイ」と慌てて行くと何故かスッカリ綺麗に改装されている。
ラストでとうとう耐え切れず弁護士にポール・アレンを殺したと告白すると「そんな筈はない、私はポール・アレンと会った」と弁護士に言われる。
現実には殺人等行われておらず全ては夢・妄想との解釈も出来ると思います。
でも自分の解釈は違っていて、やはり殺人は行われている。
部屋から死体を片付けたのは不動産屋、大量の死体等出て騒ぎになれば部屋が売れなくなる為密かに死体を処分した。
弁護士が会ったと言うポール・アレンは別人を間違えている。
登場人物達は相手をブランドや髪型だので区分けしていて顔も見ていない会話の内容にも興味がない。(この弁護士もパトリックをハルバーストラムとずっと別人と間違えて呼んでいる)
この作品のテーマは絶望的な他者への無関心、殺人が行われているのに誰も興味を示さず人が1人忽然と消えてしまっても誰も気付かないと言う恐怖。
一見お馬鹿なスプラッターブラックコメディに見えて意外と社会派なのだなと思いました。
原作はパトリックと言う人の皮を被った昆虫やエイリアンの様な奴が平然と何食わぬ顔で社会生活を送って人間社会に紛れ込んでいると言う恐怖を描いたモノでした。
あと細かい点なのですがポール・アレンを斧で殺害するシーンで斧を振り下ろすより先に噴水の様に血が吹き上がるのです。
単なるミスと思うのですが、もしこのシーンが意図的であったとすると非現実的な場面を入れる事でやはりこれは妄想の世界、これは現実ではなくパトリックの脳内世界だと言う意味にも取れるのですが。
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