サイコ映画と言われるが、本質は痛烈な社会風刺映画だった。
80年代特有の無意味なブランド思考に囚われる男たち。
車、女、住む場所、果ては名刺の素材に至るまで。
無意味なマウント合戦が繰り広げられる。
名刺のマウント合戦に笑ってしまった。
遊戯王のデュエルを見てるよう。
当人たちには大きな違いらしいのだが、観客からしたら、ほとんどの男は同じような髪型で、同じ香料を使い、同じようなスーツを着ている。
だが、そこに「本当の自分」は存在しない。
加えて、名前と顔が混乱するように仕組まれた脚本。
そのため、人物の見分けがほとんどつかない。
主人公が住む白い部屋には、生活感がまるでなく、他人がゴミで汚すことを決して許さない。
であるがゆえに、「赤色」が印象的に用いられる美術、食事に目がひかれる。
食事・セックス・殺人など生が垣間見えるシーンでは必ず「赤」が登場する。
エリートと殺人衝動。
マウントをとられると殺さずにはいられない主人公。
だが、殺人ですら、彼を彼たらしめることはない。
なぜなら、彼の殺人行動が、周囲の人々の間で関心を持たれることはないからだ。
それは最後の主人公のモノローグに現れている。
「他人のためにこの世が良くなることなど願わない。むしろ他人にも俺の苦痛を味わわせたい。
でもこれを認めた後でさえカタルシスは起こらない。
この告白には何の意味もないのだ。
俺が引き起こした暴力とそれに対する無関心さは俺すらも超えてしまったのだ。」
キリスト教的な告解による許しを得られず、個性的な殺人すら、自分の物と認められない。
恐ろしい周囲の無関心と没個性。
空虚な殺人。
他者の幸福を願う心が存在しないコミュニティ。
それは沼のように底無しで空虚な世界が広がっているのかもしれない。
血まみれ全裸でチェーンソー持ちながら、笑って全力疾走しても格好いいのはクリスチャン・ベイルくらい。