映画漬廃人伊波興一

ナイト・オン・ザ・プラネットの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

4.6
もしもこれが出会っては別れを繰り返すタクシードライバーの一期一会を描いた程度の映画なら、30年ぶりに観直してこんなに面白いわけがない。

ジム・ジャームッシュ

「ナイト・オン・ザ・プラネット」

今やカリフォルニア州のハリウッドが送り出すアメリカ映画のイメージが必ずしも豊かでないこと位、誰もが知っております。
とはいえ、前世紀の80年代終わりあたりまでは近隣州のネバダ、オレゴン、アリゾナどころか時差3時間離れたニューヨークを舞台にした(光景)さえハリウッド産の商品として世界に発信されていた印象がありました。

なるほど、確かにその以前にはシドニー・ルメットやジョン・カサヴェテスなどニューヨーク派と称された作家たちによる瞠目すべき作品などもあった筈なのに、70年代後半から頭角をあらわしたコッポラ、ルーカス、スピルバーグ等に代表される作家によって、音響や映像、あるいはメディア性などを観客の五感に満遍なく配慮した席巻的な拡がりに呑み込まれていた気がします。

しかもそれは80年代半ばにジム・ジャームッシュという前衛ポップアート風な痩身の若者が「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という映画を引っさげて現れた時でさえ、保守的な批評家やハリウッド古参者らによって、(インディーズ)という忌まわしいくらいに便利な記号で貧しくやり過ごされていました。

だけど時代はやはり変革します。
この作家、当時30代半ばにして生死の苦海を経て涅槃(ねはん)の彼岸に至った僧のように土地の精霊と邂逅を果たしたようです。

ハリウッドによって神格化された、街角のレストランと、その斜交いにポツンと建つ安ホテル。
1989年に、このそっくりの通りを、遥か離れたメンフィスの街に、オープンセットでなくて、ロケーションで見事に再現してしまった「ミステリー・トレイン」を観た方なら合点がいく筈です。

そしていよいよ90年代に初めて撮った「ナイト・オン・ザ・プラネット」の凄い所は、軽妙さや人生の含意などとは明らかに異質の(非ハリウッド的感性)を奇跡のように画面に刻み込んだ点にあります。
これは風俗や風景の描出が従来のハリウッド映画と異なるという意味ではありません。
同時期に公開されたジョン・セイルズの「希望の街」にもそれなりの非ハリウッド的感性が豊かで魅力的でしたが、架空の都市が舞台の、未知の時代考証の混迷ぶりにいささか忍耐を強いられた記憶があります。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」で描かれる五つの都市、ニューヨーク、ロサンゼルス、パリ、ローマ、ヘルシンキは例え一度も訪れた事のない人でさえSNSツールを誰もが所有している21世紀の現在なら(いかにも)と思われがちな都市の表象を、親切にバランスよい構図におさめる事など最初から小気味よく無視されて描出されていきます。

一応時差という系列に沿って黄昏どきのニューヨークから明け方のヘルシンキまで挿話は移行しますが、いかにもニューヨーク的な表象を強調する作家ならおそらくニューヨークそのものをクライマックスに装填するに違いない。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」の勝利の決定的な要因は堂々とニューヨークの挿話から始めた点にあり、映画を素肌のまま露呈させて醸されるサスペンス性を回避する理由など全くない、と誇らしげに披露してくれた所に存していると思います。
しかも最初のタクシー乗客にニューヨーク派の代表女優ジーナ・ローランズを用意して。
ジャームッシュはこの五つの都市の住人たちに確執や不和、失業、あるいは死別など、それなりの挫折感を与えて登場させていますが、観ている私たちには一般的には無害な被写体として呈示されます。
ところが背後には、悪意も、苛立ちも、悪戯心もまるで感じられません。
だからといって全編殆どの舞台がタクシー車内に集約された、この5つの挿話から人生の縮図という含意など汲み取ろうなどとは自戒するべき。

私たちが立ち合うことになるのは、実際に存在する5つの都市さえ、映画そのものを模倣してしまえば国籍や時差や言語の差異など壁ひとつの隔たりでさえない、という事実です。

それは太陽が西に沈むしかないのと同じくらい当然の事ですから。

もしも「ナイト・オン・ザ・プラネット」が単に出会っては別れを繰り返すタクシードライバーの一期一会を描いた程度の映画なら、30年ぶりに観直してこんなに面白いわけがないのです。