海

ナイト・オン・ザ・プラネットの海のレビュー・感想・評価

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日本のある都市、ある晩冬の夜、22時39分。月齢4.7中潮。駅の方向を示す標識の真下に下がった温度計が、外の温度は7度だと教えている。タクシーの運転手は何度も繰り返し先週末行われたプロ野球の試合について話している。僕はラジオで聴いていましてね、いやァ接戦でしたね、まァ勝っても負けてもデパートはセールですよ、アハハ。後部座席右側にはひとりの少女、その隣にいくらか年上のように見える男が座っている。相槌を必要としていない運転手の話に、それでも時々笑ったりしながら、少女は窓の外に、男は前方に視線を向けている。窓ガラス越しに見えている、人口100万人程度のこの街の灯りは、真夏の昼間よりも眩しく思える。「日本は、地球でいちばん明るい国らしい」といつか隣に座る男から聞いた言葉を、少女は思い出している。灯りが途切れたすきに映る眠そうな顔。柘榴色のアイラインはまだ落ちていないだろうか。この顔の、わずかに垂れさがった目尻、なんとなく子どもっぽくて嫌になる。今夜はすこしでも大人っぽく見えるように、いつもより上に向けて瞼に線を引いたのに、大して意味なかったかもしんないわ。標識に駅の名前が大きく表示されているのを少女が見つけたのとほとんど同時に、つよく握り締めていたその手に男の温い手が重なった。二人は目を合わせ、少女が微笑むと、男が口を開く。「少し早かったかな。もう一本くらい映画を観てもよかった」「でも、」少女が答えようとした矢先、運転手が駅、着きましたよと声を掛ける。「家まで乗ってくだろ」料金を払い、タクシーを降りて男は言い、財布から取り出した二枚の千円札を少女の方へ差し出す。少女は首を振り、次いで降りる。「いいの。歩いて帰ります」「寒いよ。それに暗いし危ない」「だいじょうぶ。わたし、冬生まれなんです」そう笑って、さよならも言わず、名を呼び引き止める彼の声から逃れるように、少女はロータリー沿いの歩道を小走りに抜けて、夜に紛れた。徐ろに街灯は大人しくなり、比例して少女の足取りも軽くなる。右に折れ、左に折れ、歩道橋をのぼり、またおりて、住宅街に入る。鍵の鈴のりんりん鳴る音と靴のヒールのこつこつ響く音がやがて音楽のように重なりあい、ふと少女は立ち止まり、静まり返ったあたりに目を配らせたあと、その場で踊るようにくるりと回ってみせた。そしてまた、さっきよりも軽い足取りで歩き出す。りん、りィん、こつ、こつン。跳ねても回っても、そのリズムはくずれることなく続く。かなわぬ恋を抱いたひとりの少女の、頬をマフラーをワンピースを、藍色の夜と杏色の街灯が奪いあう。嗚呼、世界にはいろんなひとが居る。かれらは皆面白いわ。どんなにくだらない話でも、何時間聞いてたってきっと苦じゃないわ。映画を観るときみたいに自分さえ黙っていられるのなら。かれらは皆かなしいわ。面白くてさみしくて、明るいの。それでもわたし、あなたがいちばん、「あなたは、地球でいちばん明るいひとらしい」とつぶやいて、高らかに笑い、等間隔の藍色と杏色の下、少女は駆け出した。身にあまる悲恋にーーありあまる初恋に、からだを委ねて。
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