真鍋新一

海を渡る波止場の風の真鍋新一のレビュー・感想・評価

海を渡る波止場の風(1960年製作の映画)
3.4
「流れ者シリーズ」2作目。アキラ、ルリ子、ジョー、マリのゴールデン・カルテットが揃えば勝手に話は回っていくのである。開始5分でルリ子が襲われ、ジョーが現れ、アキラがそれを撃退し、キャバレーには好きな男を追ってマリが流れ着いている。

例によってアキラはギターを持って荷車で寝ながら登場し、すでに「渡り鳥シリーズ」との違いはわからなくなっている。ルリ子が現地の女性ではないということくらいか。アキラのバーターで歌唱シーンのあるコロムビアレコードの歌手にすっかり詳しくなってしまった。今回はスリー・キャッツと水上早苗。いずれもセクシー系。

突出した部分がほとんどなにもないにもかかわらず、こちらの観たい場面が次々と出てくる魔法のような展開に舌を巻く。「こんな時アキラがいればなぁ〜」と思えばアキラが出てくるし、「そろそろマリが踊ってるところが見たいな〜」と思えばキャバレーのシーンになる。

アキラとジョーは、タバコに火を付け合うだけの短い時間に3回くらい目配せをし合う、このあ・うんの呼吸。敵対しているくせに、例によって仲良しである。なぜアキラがいつもルリ子を助けるのかという疑問については「フェミニストだから」という単純明快な答えが。こういうところもアキラは早い。

脇役では、野呂圭介のチンピラがやたら変顔をしてきてやたら目立つ。それから、利用価値があるとか言ってるくせに、人質をヤク中にして役立たずにしてしまう悪役はいくらなんでもアホすぎる。
真鍋新一

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