ニューランド

東京ラプソディのニューランドのレビュー・感想・評価

東京ラプソディ(1936年製作の映画)
4.5
 物凄い実力者なのに、こてこてに押し出すサガがないせいか、それ程話題にならない人もいる。本作も、人間性を押しつぶさんとする話題·収益目的の、芸能プロダクション·マスコミのあり方を問い、黒澤の『醜聞』に向えば、骨あるヒューマン作と祭り上げれたのに、腰砕けと叩かれるというか、それ以前にありきたりと無視されがちになる。そんな社会的公式を越えた映画、映画のリアリズムをなかなか抜けられない重厚な尤もらしさを離れた·箱庭的な稚戯的な勝手自在世界、を最高のセンスと自由の精神とはこれだと、あくまで控えめに拘りを捨てて示してくれる。映画史上最高傑作にも、普通に推したくなる。
 以前にも書いたが、十代の頃に『支那の夜』等は観てたが全く関心外だった(近年見直すと傑作だと遅ればせながら気が付いたが)作家だったのが、クレール+ベッケルを更に越えたセンスに気付き、眼にした全てに文句ない傑作と認め始めたのは、せいぜい三十年位だ。同年輩は、マキノ·山中·黒澤と逸材揃いだが、そのメンバーに劣る事はない。
 PCL的なソフトまろやかだが手応えは確かなトーン、有楽町の向かいの2軒の店と行き来できてく·或いは夜のビル屋上の2人を囲むネオンの形の個性とそれにより離れた場所からもそこを特定出来る美術の華奢さとセンスの素晴らしさ。(退くと)白い雨降りしきってる·窓枠の四角格子や丸枠·枝や葉の張出し·越しらの図、速い左右パン(を入れてのカッティング)·左右フォロー(カットの対称繋ぎ)·(俯瞰や仰角にもってく)ティルトやクレーン·似た人の方の動きのカット連打·縦や横や(人や車)フォローのカメラ移動の溶け込み·フィナーレ特出スター連の主題歌受渡しの自在無縫カメラ移動らは、動感ではなく動きそのものが固定されてるスクリーンを変質させる。
 カッティングもまた、中継切換や立体バランス作り·または行為の強調、最適位置探し誠実さ、のどれでもない。観客の自由意志世界への参加、それも先入観排した、既存形式を抜けたもの。90°変、そこに45°来ても違和はなし、アップ他の切返しや対応、どんでんも効果狙い以上の視野、俯瞰め·仰角めもナチュラルに入り、深い縦の発見を伴うもこれ見よがしでない深い宇宙の感触と共に、向き合いトゥショットや、忙しない複数場関連併行も一筆書きセンスで流れ広がらず、和服でも障子窓の段に腰かけるなどに人の動きや関連の軽さ·スマートさには見惚れるキャラ揃いとバランス。
 クリーニング屋の若旦那(藤山一郎演だが、役名が若原一郎と戦後になってからの実在歌手名)と向かいのタバコ屋(花屋と靴磨きと列ぶ)の御茶ノ水から来てる店員·渾名‘鳩ポッポ’(花屋と路上靴磨きに隣接)は、「今の幸せ怖いくらいで、他や上は望まない」逢瀬も皆が祝福の仲。夜デート中の彼の唄の実力を認め·軽い気持ちでスカウトに応じさせたは、やり手の芸能界仕掛け人、竹中労的女。過密スケジュールの、汎ゆるメディアにキャンペーン·スポンサー獲得の大プロジェクトは、大成功で大人気者が生まる。えげつないゴシップこちらがらバラ撒きも当たり前に。若旦那にブライベート時間消失、ゴシップスキャンダルで、彼は成功者として遠くにと引き下がる‘鳩ボッポ’。それぞれの親友同士のカップルが立上り、硬軟にポイント上げてく。若旦那も‘鳩ポッボ’失う怒りで、社を辞める。女竹中も元より悪意や人間性抑圧の意識はなく、活力ぶつけ絶えずが、人間の本分と思い込んでただけで、恋人の実業家のアドバイスもあり、応じてく。しかし、ゴシップの中心の芸者が、実は若旦那と幼馴染みで旧交暖めの仲だけで、生来の貧困で遠方に店替えの廻され生活と分かり、それを食い止める金策の為もあり、今度は自らの意志·目的で、清々しく歌うへ復帰、その気概と前進性が全国に拡がってゆく。
 御茶ノ水の聖橋やニコライ堂のシンボリック、有楽町辺の堀の当時の水流広さ、共に伸びやかセンスで捉えられ、室内セットの背景の質感と時間帯表現、同じく拡がりと柔らかい親しみで違和なく繋がる。繰り返すが、こんなのをこそ、映画史上ベストに置きたい。
 記録的大ヒット曲とのタイアッブ映画でしかない一般認識は、半年前にFAで上映された映画『白薔薇~』も、映画評論家の荻野さんがそのセンスを絶賛していたように、彼のような昭和40年代生まれや私のような30年代生まれには、理想の映画なれど、この欄を見てると、昭和20代生まれ重鎮世代や、若いメイン世代には、とるに足らない凡庸な作家でしかない、のは常々感じてる(と思いこんでたが、今見ると二十代にも、結構絶賛者が目立つ)。
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