眠り猫

汚れなき悪戯の眠り猫のレビュー・感想・評価

汚れなき悪戯(1955年製作の映画)
4.0
Ⅰ はじめに

ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』で、アナが脱走兵にりんごを差し出すショット。『ミツバチ』で最も有名なショットといってもよいだろう。

これが、『汚れなき悪戯』のマルセリーノ少年がキリスト像にパンを差し出すショットを踏まえていると知り、観ることにした。

ここでは、マルセリーノがどのような存在として描かれているか、どのような書物を踏まえた物語となっているか、について考えてみたい。

Ⅱ あらすじ

まずは、ざっとあらすじを見ていこう。

聖マルセリーノ祭の日に、神父が病気の少女のもとに赴き、マルセリーノ祭の由来について話してやる。神父の口から、マルセリーノの誕生から死までが語られる。映画は、劇中劇の形をとっており、入れ子構造になっている。

19世紀のスペインの村に、3人の修道士によって、修道院が建てられ、修道士は12人に増える。ある日、門前に赤ん坊が捨てられ、赤ん坊はマルセリーノと名づけられ、修道士たちによって育てられる。

女性と接する機会も、同世代の友人もいないマルセリーノ。彼はたまたま出会った美しい女性を母のように感じ、その女性の息子がマヌエルという名前だと知る。
マルセリーノは、会ったこともないマヌエルに呼びかけ、マヌエルがいるかのようにして遊ぶようになる。

マルセリーノは、修道士たちから、屋根裏部屋に入ることを禁じられているが、ある日、こっそり忍びこみ、十字架のキリスト像に話しかける。
キリストがお腹を空かせていることを知ったマルセリーノは、パンとワインを台所からくすねて、キリスト像のもとに持って行くようになる。ときには、自分のパンを全て食べずに、シャツに忍び込ませたりもする。
『汚れなき悪戯』の原題『パンとワインのマルセリーノ』は、ここから来ている。

マルセリーノに感謝したキリストは、マルせリーノの願いを叶えるという。マルセリーノは、天国にいる母に会いたい、といい、願いは聞き入れられ、息絶える。マルチェリーノは亡き後、聖人としてまつられる。

Ⅲ 少年のイエス
 
最後の晩餐で、イエスは十二弟子と食卓を囲み、パンを自分の体、ワインを自分の血だと思って口にするようにいう。
そして、人類の罪の身代わりとして十字架にかかる。イエスは、自分の命を犠牲にして、人類への一方的で絶対的な愛を示したとされる。

マルセリーノは、イエスよろしく、動くことのできないキリスト像に代わって、パンとワインを運ぶという自己犠牲を払っている。キリスト像に与えるために、満腹するまでパンを食べるのを我慢しさえする。キリスト像に一方的で絶対的な無償の愛を注ぐマルセリーノは、イエス的な存在であることがわかる。

Ⅳ 福音書を書き換える

マルセリーノの誕生と死は、イエスの誕生と死をパロディ化したものといえる。そのことは、ディテールに着目すると、よりはっきりする。

修道院を建てる3人の修道士は、誕生したイエスのもとを訪れた東方の三博士を踏まえている。
マルセリーノは12人の修道士と毎晩、食卓を囲むが、これは最後の晩餐のパロディといえる。
マルセリーノは、見えないマヌエルと一緒に遊ぶが、マヌエルという名はインマヌエルから来ている。マタイ福音書は、イザヤ書におけるインマヌエル預言の成就がイエス誕生であると書く。
マルセリーノのマヌエルへの語りかけは、イエス像への語りかけの予兆となっているのだ。

こうしてみると、映画が描くマルセリーノの誕生と死の物語は、福音書の描くイエスの誕生と死の物語を下敷きにし、それを書き換えるものになっていることがわかる。

Ⅳ おわりに

3人の修道士は東方の三博士、マヌエルはインマヌエルというangelicaさんのご指摘には、はっとさせられました。さすがは「angelica」さんです。ありがとうございました。
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