わかうみたろう

トロピカル・マラディのわかうみたろうのレビュー・感想・評価

トロピカル・マラディ(2004年製作の映画)
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川内倫子の写真集には、手がよく出てくる
手にのったカエルとか蝶とか
それは手が潜在的に暴力性を備えているからでその対比で自然(毎日の環境)の生の生々しさやら脆さやらのイメージかなと思ってたが、とんだ頓馬だった

そういう見え方もあるだろうけど、そこで手はカエルや蝶を始めとした世界との一体化した瞬間なのだろうなと
アビャッポン監督の「トロピカルマラディ」とその後の宮台真司と観客の人の話で思った
川内倫子が人をあまりというかほとんど、子供とか近しそうな人以外、写真に映さないのは

アビャッポン監督と似た意識があるのかも
アビャッポン監督がcinemaと映画は違うという話をしてるらしく、上映を企画した方に聞いたのとか作品を観たなかではアビャッポン監督はストーリーのない記憶として作品を意識してることだろう

映画見て途中で寝て夢の中で映画を見てから起きてまた見るというのが好きなのだけど、その時の夢で観た像はわりと頭にこびりついて忘れられない経験があるけど(ブンミおじさんの森はまさにそう)川内倫子が写真集をパラパラみてほしいって言ってたのもcinema的なものを目指してるからなのか

とにかくアビャッポン好きな人は川内倫子、川内倫子好きな人はアビャッポンの作品を観て欲しい


人間は二足歩行するようになって手が自由になり手が視界によくはいるようになって自分自身とは何かについて考えることが増え思考力が高まった的なことをどっかで読んだけど、
それはきっと自分がいることで世界が複雑化したからだろう

そのとき世界に「関係性」が生まれたのかな

手は何でも掴めるし何にでも成れる
鉛筆を持ってるときは鉛筆の延長として手があるし、箸を持ってるときは箸に成ってる

けど、切り離せない自分という軸に縛られたことで全体性は失われ関係という感覚が生れた

ってことは、手をモノとして捉え世界や森や環境自体に自分がなりつつも自分として生きるってことは、ある意味では進化でもあるのだろうか

いや、昔の人々はその複雑性の中で全体性を捉えていたことは人類学的に調べられてるし、宗教とかを感じるにそれはわかることだ

その感覚を覚えることが進化だと思っててしまうのは退化だ

きっと複雑性は無意識の中にしかない

アビャッポン監督のこの作品はというか作品全体は(まだ二本しかみてないが)こんな感じなのかな


ps.そこで自分としてはその複雑な全体性を言葉で捉えなければわからなくなった空間でどう取り戻すかという別の実践を考えるときに頭に浮かぶのが小沢健二の音楽だ

トロピカルマラディのレビューなので詳しくは省くが、生活と宇宙と自分を繋げる媒体として音楽を小沢健二はとらえてる
歌のいいところは、言葉と身体がくっつくことだ

ずっと歌い続けもしくは聴き続けると歌詞が頭に、身体に染み込んできて、自分のいる環境の中が歌詞(身体)とリンクしてくる、逆もしかり


(それはアビャッポンの映画や川内倫子の作品にもある
実際トロピカルマラディの後半の森を観ているときに、小さい頃よく行ってたコテージのベッドの上で天井に虎の模様が見えるのと似たように、草木も何かの生き物に見えてきたり)

そして、小沢健二がそういう歌を歌っているのは、宮台真司と同様に渋谷の熱狂が冷めていくのを感じていたからなのだろう

小沢健二の曲に躁鬱っぽさがあるのと宮台真司が熱狂が冷める時代に鬱になったのはなんだか同じように思える


アビャッポン監督の作品と小沢健二とでは表層は逆に見えるが同じものを抱えてると思う

けれども、映画とか音楽とかっていうスタイルを通り越したところに、芸術があるのだろうきっと


メモの代わりに