カラン

ショッカーのカランのレビュー・感想・評価

ショッカー(1989年製作の映画)
3.5

連続殺人犯の男が電気椅子から甦ると、霊魂となって接触した人物に憑依して操り、テレビのブラウン管を通して映像の中に入ったり、生放送のスタジオに行き来できるようになり、町が大混乱に陥るというかなりファンタジックなウェス・クレイブンによるスプラッター。

最初の25分くらい、全体の4分の1くらいまでは、かなりわくわくした。ウェス・クレイブンのベストになるのか?ぐらいに。しかし、思いっきり失速する。VFXの技術的な精度に頼りきって映画を展開させているのに、それが映画的ファンタジーに昇華する前に、完全に失墜している。


☆電気、霊魂、死 

犯人の正体が一種の霊魂であり物理的存在ではないとしよう。しかし電気は電荷による物理現象である。霊魂と電気の相互作用というオカルト的前提を受け入れてもいいのだが、霊魂がそんなに重要ならば、なぜ霊魂になった犯人は物理的に人を殺そうとするのだろう。というのは、犯人が殺した人たちは霊魂になって現れるのだ。つまり、犯人は人を殺すも人は死なないのである。こうして他愛ないVFXによって語りだす展開によってこそ《死》は、無意味で無価値になるとまでは言わないが、少なくとも意味不明なものとなる。


☆水イメージ

警部補の里子になった大学生の部屋にはマッサージチェアがあるが、ウォーターベッドまである。彼はこの部屋で恋人と同棲していた。バスルームのシャワー、発電所には降り続ける雨、ペンダントが沈んだ湖、水たまりになる多量の血。電流イメージと交錯させたかったのであろうが、本作は水イメージを多用する。しかし、かなり適当である。

中でも適当なのがウォーターベッド。奨学金をもらっても警部補の里子である大学生が所有するものだろうか。そのベッドで眠る主人公の耳に水が滴る音を響かせながら、どのタイミングだろうかと思っていると、ベッドに倒れ込んだ拍子に水面に変わり、ベッドの中に溺れていく。はめ込み合成したような稚拙なショットになっている。物語において水を象徴化することはそもそも失敗しているのだが、それを映画的に表現することにも失敗している。ウォーターベッドの稚拙さは、電流イメージにも当てはまる。こうして本作は、どうでもいいものを素晴らしいということに血道をあげるシネフィルたちのためのカルトムービーになってしまうのである。


☆ 君の名は

電気椅子のシーンの前まで、本作はわくわくどきどきが止まらない。もっとも素晴らしいのはアメフトの練習のシークエンスで、同棲している恋人の心理的ズームである。本作はなんと恋人が恋人であると分からない状態で始まる。アメフトの練習でボールが回ってくる。集中しろ、よそ見をするなと檄が飛ぶ。ボールを持って走る男のPOVから、ブロンドの女の眼差しが激しく揺れるフレームのなかで映しだされる。日常に亀裂が入る不吉さを恋人の認識不可能性によって映像化したのだ。自分にとってたぶん大切なはずのこの女は誰だ?と、ミステリーのファム・ファタールとして恋人を登場させるのであった。

恋はレトロスペクティブなものである。恋人は初めて逢った誰かに昔の名残りを見い出そうとするものである。本作の男と女はフットボールコートで初めて逢ったわけではない。彼らは同棲しているのだから。

そうした本作の夢の女イメージはアレハンドロ・アメナーバルの『オープン・ユア・アイズ』(1997)やジャコ・バン・ドルマルの『ミスター・ノーバディ』(2009)の女の出現なみにエモーショナルである。いや、それらよりも構造的にフレッシュである。フットボールコートでの揺れるPOVは、鑑賞者が映画の中の人物と恋に落ちる瞬間を実現しているダイナミックなショットだった。本作を最後まで見通すことができたのは、この冒頭のおかげであり、それがなければ途中で止めていただろう。☆3.5とする所以である。



4KリマスターのBlu-rayで視聴した。知らない人であれば90年代後半の映画だと言っても通じるレベルで、クリアーであるがフィルムの湿潤が感じられ、からからの嫌な感じはない。音質もよい。特に古い映画は低音がすっぽり抜けてしまうものだが、雷のSEなど逆相で入れ(直し)たのか知らないが、耳のなかに響き続けて驚いた。
カラン

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