イホウジン

ファイト・クラブのイホウジンのレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
3.9
退屈な日常への刺激は、やがてファシズムの狂気へ

単調なデスクワークと資本主義の下にある嗜好品を楽しむ行為は、まさに現代社会の“理想”的な生活と言える。今作におけるスタバとIKEAの立ち位置は、両者がすっかり普及した今日の日本において、大いに共感できるものがある。だが現代の仕事も趣味も、そこに肉体は存在しない。それは単に豊かさの記号を消費しているだけであり、自身の身体の内には一切の根拠がないからだ。
そんな精神分裂的な状況下で(これもある意味今作の重要な要素である)、主人公はファイトクラブに出会う。タワマン生活から急速に堕落しつつも、次第に己の肉体に従順に生き生きとしていく様が、現代社会が人々から何を奪ったかを暗示してくる。なので今作のこの辺のワクワク感を引っぱってきて、今日の社会への皮肉として賛辞することは容易だ。実際、中盤のGUCCIの広告をディスったりするシーンなど、私自身なかなか痛快に感じるものもあった。
ただしこの興奮には一定の留保が必要だ。この怒りや反発心を集団で共有することは、いずれはファシズム/テロリズムの狂気へと発展してしまうからだ。確かに途中から、主人公らの目的は「腐った世界」そのものの変革へと移行する。それ自体は特に問題ではないのだが、これをファイトクラブ外の世界と一切共有せず、あくまでクラブの会員を社会全体に潜ませるという手法をとったことで、他者に対する想像力を次第に減らしていってしまう。
このプロセスを俯瞰して連想するのは、戦間期のドイツにおけるファシズムの拡大だ。第一次大戦の賠償やその後のドイツの政治体制への不信感を破壊してくれる救世主として、ナチ党の人々はヒトラーを信望した。そして政権獲得後は、国内のあらゆる組織に党員を介入させ、社会のナチ化と反ナチ系の勢力の一掃を図った。その後の顛末は言わずもがなである。漠然とした日常生活への不満が、最終的には果てしなく巨大な暴力へと変貌してしまったのである。
これと全く同じようなことが今作でも起きることになる。終盤の展開は、まさにこのナチスのプロセスがテロ組織にも同様であるということを暗示させるかのようである。問題なのは、それをめぐる語りに他者が介入する余地がない点だ。明らかにファイトクラブの人々は社会の秩序を乱す過激な行動に出ているのにも関わらず、それを止める人が登場しない。またそれが倫理的に誤ったことであることを画面の外の観客に伝える第三者も存在しない。その危うさの真骨頂たるこの映画のクライマックスは、登場人物目線でみれば非常に気持ちのいいものであるが、普通に見れば本当に恐ろしいことであるということを忘れてはならない。
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