ずどこんちょ

誰も知らないのずどこんちょのレビュー・感想・評価

誰も知らない(2004年製作の映画)
3.6
公開当時からその存在は知ってはいたけど、レンタルショップでも地上波放送でもずっと見るのを避け続けて、気付けばいい大人になりました。というわけで初鑑賞。
誰も知らないというか、知ってはいけない、知ったら元には戻れないって分かっていたから避けていた気がします。

今や日本が誇る監督となった是枝監督の作品です。是枝監督は母校の先輩なので面識は全くないのになぜか親近感があります。主演の柳楽優弥は本作で注目され、カンヌで最優秀主演男優賞を受賞します。今でも立派な演技派俳優です。

出生届の出されていない無戸籍児が母親からの育児放棄にあい、兄妹だけで何ヶ月も暮らしていくストーリー。実際に起きた育児放棄事件を元に作られた作品です。
痛ましい事件がベースにあるというのが、これまでずっと嫌厭してきた大きな理由の一つでした。フィクションだけど、フィクションとして割り切れないというか。
もちろんそういう社会の真実から目を逸らしても意味がないとは分かっているのですが、どうしても自分の中の弱さが見たくないものに蓋をしてしまおうとしていたのです。
ところが蓋を開けて見れば、本作は痛ましい事件を基にしつつもどこか彼らなりのハッピーを感じさせる部分もあったのです。ブスッと鋭いナイフで突かれるというよりも、じんわりと心を撫でていくような感じです。

それはきっと本作が描きたいものが社会問題そのものだけでなく、育児放棄を受けた兄妹たちがそれでも子供たちだけで立ち向かおうとする兄弟の絆を描いていたからなのだと思います。
コンビニの残り物を分けてくれる店員など、彼らを周縁から助けてくれる大人はいても、彼らに手を差し伸べる大人は出てきません。というよりも、彼らが手を差し伸べようとする大人から身を隠しているのです。

だらしない母親のけい子を演じたのはYOUです。
イメージがピッタリということでキャスティングされたYOUですが、決して子供たちと向き合うときに冷淡で愛情がないわけではないのです。
遊ぶときは一緒になって全力で遊ぶし、子供たちも母親のことが大好きです。ただ、男関係が奔放なけい子は子供よりも男を優先してしまう無責任な節があります。
ちょっと家を空けますと言ってからあっさり何ヶ月も帰ってこなくなるなど、その別れも重々しいものではなく、あくまで「外出している」かのようなのです。
だからこそ、大きい子供たちは母親が実は男と遠くで暮らしていることは察していても、小さい子供たちは気付きません。ちょっと仕事で家を空けているだけですぐに帰ってくると信じているのです。
あまりにも残酷で、痛々しい信頼なのですが、彼らにとってはそれが日常なのかもしれません。

戻ってこない母親に代わって、家を支えるのは長男・明です。この家の子供たちは全員学校に通っていません。出生届を出していないからバレていない。そのため明は買い物や料理などを担当し、長女・京子が洗濯を担当するのです。
余談ですが、明は途中で悪い友人と知り合ってから家のことが疎かになることがあるのですが、京子は水道を止められてもなお洗濯をし続けていました。健気に役割を守っている姿が余計に切ないです。

母からの仕送りも止まり、帰ってくるはずだったクリスマスが過ぎました。クリスマスケーキが値下がるまで寒空の店頭で粘り続け、まるで母からの郵送であるかのように、なけなしの仕送りを崩してお年玉を配る明。兄妹を喜ばすことも明の使命なのです。彼はこの家の兄であり、父であり、母だと言えます。
そうかと思えば買い物帰りに公園で落ちているボールを見つけた明は一人でそれで遊びます。その表情はまるで子供。本当だったら友達の家に遊びに行ったり、公園で遊んだりしている年頃なのだと気付かされます。

そんな明が悪い友達とつるみ始め、段々と家庭のことをやらなくなってからは家の中は荒れ放題です。
部屋の中はゴミだらけ、シンクには洗い物だらけ、生ごみの匂いが充満しています。服もボロボロになり、髪も伸び放題となっています。
明を責めることはできません。彼がすべてを背負って家事を回す責任はないのだから。責を負うべきは彼ではない。しかし実質、あの家ではまだほんの12〜3歳の彼しか責任を背負える人がいないのです。
それが明にとってどれほど重責だったのだろうと思います。

彼らが大人を頼りにしないのは、かつて福祉を頼りにした結果、兄妹が離れ離れにさせられそうになってしまったから。
明曰く、とても大変な思いをしたのだそうです。あんな思いをするぐらいなら兄妹で飢えや貧しさを乗り越えていく方が幸せだと感じているのでしょう。
この映画を見て傍から見る大人が思う幸せと当事者の子供たちが思う幸せというのは違うのかもしれません。
だけど、子供たちの価値観は常識とはかけ離れています。たとえ自分たちで植物を植えて飢えをしのいだり、公園まで水を汲みに行く生活が苦じゃないのだとしても、やはりそれは確実に彼らの生活を追い詰めていくだろうと、まともな大人なら分かります。
この物語の行末は、そのうち誰かが病気や栄養失調となって死ぬか、福祉に気付かれて一家離散となるか、奔放な母親が帰ってきてまたすぐ出ていくループに陥るかといった、どれを取っても悲惨な展開が目に浮かびます。

そんな中、ついに悲劇が起こります。
一番末っ子のゆきが椅子から落ちてしまい、目を覚まさなくなってしまうのです。
あんなに不良友達の挑発を断ってでも万引きには手を出さなかった明が、ついに万引きに手を染めて湿布を盗んでしまうほど、窮地に追い詰められていた明。お金が少なかったため母親にも連絡が取れません。頼りにできる大人も周りにいません。
明の健闘も虚しく、ゆきの体は冷め切ってしまうのです。

いや、本当は周りに大人はいました。
大家もいたし、コンビニの店員さんもいました。それなのに声を上げなかったのは、大人への不信感なのでしょう。
福祉には兄弟を引き裂かれるし、コンビニの店長には無実の万引きを疑われるし、親には見捨てられてきました。誰も助けてはくれやしない、子供達の力で生き抜くしかないという信念だったのでしょう。
彼らがそう決めたのか、周りの大人が彼らにそう決めさせたのか。おそらく後者に違いありません。

冷たくなったゆきをトランクに詰めて明は空港に向かいます。生前、彼女にいつか飛行機を見に行こうと約束したから。明は飛行場の近くにゆきを埋葬することにしたのです。
トランクを転がして向かう道は、いつかゆきが母親が帰ってくると言って聞かなかった時に、明が駅まで連れて行って帰ってきたあの道でしょうか。

作中、子供達の足元がよく映ります。
日増しに汚れていって、日増しに壊れていくのが靴です。だから段々と痛々しくなっていく靴を見るだけで苦しい気持ちになっていきます。
普通に親がいる同年代たちの子供たちが履いている靴とはまるで違います。
靴にその人の全てが現れるのです。彼らの靴はボロボロになっていました。

一方で物語は唐突に終わります。正直、え、ここで終わるのと思ってしまいました。
誰も存在を知らなかった一人の少女がこの世からいなくなったことなんて、世間が知ることはありません。
誰も存在を知らなかった彼らのことはいつ見つけてくれるのでしょう?母親はいつゆきの死を知るのでしょう?それを知った時、彼女はどんな責任を感じるのでしょう?
実際の事件に基づくストーリーだからこそ、その先を知りたかったのですが、ここで終わらせたということにも意味があるのだと思います。

これはあくまで社会から疎外されている子供たちが存在していることを描いた作品です。実際の事件の子供たちは最終的に悲惨な状況で世間に認知されました。しかしこの作品では社会に存在を認知され、関わるようになってからについては焦点が当てられていないのです。
監督は彼らの物語を福祉の落とし穴を描いた社会派サスペンスではなく、一つの「不完全な家族」の物語にしたかったのではないでしょうか。
だからこそ、家族の一人が亡くなって供養するところまでを描いたのかもしれません。供養を終えた後、彼らはいつものようにまた生き続けます。
大人不在の、子供たちだけによる不完全な家族であり続けるのです。

経済的な支援もない、福祉的な支援もない彼らがどのようにしてその隙間を埋め合って何ヶ月もの間、生き続けたのか。
いかにしてこのような問題が生じたかという背景が大事なのではなく、問題を抱えた彼らが乗り越えようとした絆を描いた作品だと思いました。