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気狂いピエロのotomisanのレビュー・感想・評価

気狂いピエロ(1965年製作の映画)
4.1
 きちがいピエロのフェルディナンはやっぱりバカだった?久しぶりのピエロはマリアンヌには「気がちがった」と眺められる。しかも名前まで変えて。そんなF.の自身についての最後の述懐は「俺は馬鹿ってことよ」と示されるが「現にバカしてるかなぁ?」いう半ば他人事であった。もちろんしてる。ただ、ダイナマイト人間に変身中のせいで我を「見失った」末の過失であるか、本源的に我を見失う類のバカのせいなのか。

 最後の最後までマリアンヌからピエロ、ピエロと呼ばれて5年半前のそのピエロが本当に今のこのF.であるのか?
 物語のはじめでのふたりの記憶の食い違いが、さいごF.に撃たれて死ぬマリアンヌの今わの際で改めて思い返される。腐れ縁が絡まったようにパリを脱出して南仏の島まで落ち延びた二人の噛み合わないのに離れられない縺れ合いが愛とか何かなんだろうか?

 1965年、現代のパリは生きるに値しない?パーティー会場で交わされる会話の中心は消費財、工業製品への評価と賛辞ばかり。これはもちろん、国としてフランスが大戦の後始末、欧州協調、植民地問題、内乱鎮圧、核装備、独自路線の選択と、政治の時代を乗り越えて本格的な経済発展と社会の立て直しに転じた時分、既に一足先に豊かになった、または、依然として豊かな人々の様子を皮肉るための絵である。
 ただ、テレビ局をクビになってプー太郎なF.にとってのその絵は、F.vs.マスコミ界戦に敗けて世間からもあぶれた我が身を一層疎外する当代フランスでも先端をゆく階層にある面々の特徴そのものなんだろう。
 そんな状況が気にくわないアウトロー気分で出会ったマリアンヌ、昔の知り合いといっても、F.には夜の街を出歩くくらいの娘がいるにもかかわらず、5年半前に付き合ってたとはF.のなんなんだ?しかもマリアンヌは、繰り返すがF.をピエロと認識している。
 この微妙さを棚上げにして、さらにマリアンヌに連なる武器密売組織がF.の知人フランクでもあり、彼と出くわすマリアンヌ宅には謎の死人までいて、どうやらパリは生きるに値しない以上に生きるには剣呑すぎというべきか。

 別に焼棒っ杭に火が付いたわけじゃない。一夜と死者一名の事件とを共にし、勢いでパリを飛び出して、開いた地図の北から南へ転落していけば自ずと海に引っ掛かるだけ。地中海は塩分濃いめ必ず浮かぶしね。途中腹が減ってガソリンが減ったら一発芸か盗賊で賄うだけの世過ぎだ。
 ふたりのこのドタバタの中でもピエロとF.は一向に合致する様子がない。それどころか、例の組織とまた鉢合わせて、さらにご同業?マリアンヌの兄貴まで絡まることによって、F.とマリアンヌの疎隔、智・情不一致はますますひろがる。その先にふたりの死が訪れるんだが、そこへの過程でマリアンヌの犯罪者の素顔がさらに露わになる一方、パリを出て誕生した文筆家F.の仕事はあえなく萎んでゆく。
 マリアンヌとも逸れて創作ノートも放り出してなるほど、両者はF.の逃走車両の両輪だったわけかと思う一方で、現にFilmaに寄稿する我々はそうした日々の筆記が単なる心の澱の捌け口に過ぎない事も分かっている。マリアンヌが消えて澱む気持ちが失せてしまえば吐き出す言葉も失せてしまう。これもまた本当のところ、FとM、互いに好いのか悪いのか?まあ心なんて幾らでも重ね合わせられるだろう。
 さて、生きるに値しないパリでは何も吐き出す言葉のなかったF.が、出奔からひと月あと、生き生きリヴィエラから放逐され、同じく生きるに値すまい軍都ツーロンで元レバノン王妃にかしづいて創作フリーでいられるのもなんとなく頷ける。
 だから、不意のマリアンヌの訪問で彼女に創作ノートを拾われついでに、彼女に言葉を書き添えられて実はF.も有頂天、ギャングの片棒でも先棒でも担いだろと崩壊するのも、まさかと難癖付け辛いところだ。だが、ここでふと思うのは、パリ出奔以来なんの事件を経てもサッパリこちらの心に電位差を感じないで来たという事である。こののんべんだらりんとした雰囲気のまま、さらに事件の断片を継ぎ合わせて物語は死体の数を増やしていくが、ついにマリアンヌがピエロに殺されたつもりで死んで、最期までピエロとは誰か?つんぼ桟敷で捨てられたF.がヤケっぱち、死ぬ素振りを重ねてもなお、ピエロとは誰かマリアンヌに確かめに死ぬよりも生きて何かする事があるのでは?それとも生きてた方が得か知らん?と本当は、内心6割ぐらいで思ってたんじゃないか?
 そんな反面、マリアンヌを殺しておいて、それでもあれは失意なんだろう。ダイナマイト人間になってヤバい、やり過ぎたと導火線に火をつけた事を後悔する刹那には、やはり、胸が高鳴る気がした。まさかの、あの爆死のいっときのために抑えに抑えたトンチキエピソードを積みに積み重ねたのだなと、どこか納得してしまった。

 F.の不測の過失致死のおかげで、マリアンヌは、海と空のお日様とF&M、男と女ふたりでひとつとの三位一体が叶って、今更ピエロって誰だよと尋ねられるのかどうか知らないが、ムダに言葉で鎧って成すところを忘れるF.の悪癖を蹴散らしたと思ってるかもしれない。これ幸いとするならば、生きるに値しないのはまさにこの地上そのものということだろう。F.をここまで引きずり込んだマリアンヌの「永遠」の感慨で終わる中、「ピエロ」は5年7か月前に失われたF.に修飾を施したマリアンヌの夢の像に過ぎなかったかもしれない、人騒がせな。
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