くろーぜっと11

許されざる者のくろーぜっと11のレビュー・感想・評価

許されざる者(1992年製作の映画)
4.6
10年ぶり(本当はいつぶりかわからない)に観たが、だいぶ感想がアップデートできて嬉しい。

以前見た感覚を思い出すと、ヤバい時代にヤバい奴らが殺されないようにしのぎを削ってる、というのがイーストウッド西部劇の前提としてのイメージだった。

我ながら本当にバカなイメージだったなと思うけど、とにかく当時はその邦題と映画自体の途方もない野蛮な迫力にただただ打ちのめされて鑑賞したという記憶が大きい。

ただ、その以前の感じもまんざら間違いではないだろう。それどころか、今のクリーンな世界観から見返したらなおさらその世界はひどく野蛮だとしか言いようがない。
エンタメにおいてカンフーとかプロレスとか忍者とかと並列して賞金稼ぎのガンマンもその類の一つとして消費されていたのだ。
もちろんこの映画はそれらとは十数年の時を隔てた1992年の作品であるし、むしろそれらへのアンチテーゼとしての意図があるはずだったろうと思う。

それでもなお今の時代感覚からすれば、これが最後のウエスタンだといわれども野蛮極まりなくみえるのは確かなのだ。
そんな野蛮さはジャンルとしての前提なのだと肝に銘じていても、殺戮の動機がほぼヤクザ的であることの違和感は物語の趣旨を捉えることの障害となるだろう。

そんな前置きは実はどうでも良くて、10年ぶりに見たこの映画に僕は全く別な戸惑いを覚えたのだ。

それはひどく単純な感覚だ。
なぜイーストウッドは最後、死なずに生き延びたのか。なおかつ終幕のナレーションにはその後にひと山当ててその後の人生を歩みましためでたし、みたいなことになっている。

ぶっちゃけ驚いた。
どう考えても、この主人公は殺されて終わるはずだろうと思えたからだ。以前見た時は野蛮さの説得力から思考停止になってたのだろう、まてまてといった感じ。
罪を贖わないで良いのか?と。現在こんな映画はあるだろうかと。

ものすごく動揺したので、よくよく映画を振り返った。すると違った思いが湧き起こった。

許されざる者とは他ならぬイーストウッド本人であり過去を悔やんで生きている、ということは以前見た時にも分かっていた。が今回、頼り甲斐のある保安官ジーンハックマンこそがその上を行く許されざる者だということが描かれているのではないか、ということに思い至った。

街の治安を守るために暴力には暴力で対抗するしかないみたいな正義感ゆえの不器用さは、自作する家が雨漏りしてしまうことにも重なって見える、というようなある種の健気さに観えていたものは大きなまちがいだったのではないかということ。

ジーンハックマンは街の治安を守るという社会正義より、俺様の街で勝手にのさばるんじゃねえというような、悪しき国家権力の権化みたいなやつで、家を自分で作っているのも俺の家は俺が作るということでしかないのかもしれない。
雨漏りしても俺の家(街)は俺が作る、なんか文句あるか、ということだ。
その威厳のようなものは決して気高いものではなく、国家を後ろ盾に保安官に命じられている権威主義的な偽りの威厳なのだ。
国家とは父権的(傲慢)にメンバーを選別する装置であり、ジーンハックマンの差別的(女性や有色人種あるいはよそ者に対する)な態度がそれを象徴していたのだった。

対してダークヒーローとしてのイーストウッドが現れる。
時として国家(街)の「秩序」や法を突き破ること。それって現代において忘れかけていた、かつてはあったヒーロー像なのでは。
だからこの映画でイーストウッドが死なないのはあえて正しいことなのである。

罪を犯したものにはそれがたとえ正義だったとしても必ず罰が与えられるみたいな、キリスト教徒でもないのに惰性で身についたような気持ち悪い感覚を払拭してくれたイーストウッドでした。

追記:
同時期にカサヴェテスの『グロリア』を観たのだが、この映画においても絶対最後殺されるんだろうなと思って見ていたグロリアが死なないで戻ってきた。その生還に困惑しつつ、いやこれで良いんだと最高に感動しました。