前方後円墳

舌 デッドリー・サイレンスの前方後円墳のレビュー・感想・評価

2.0
ディスコミュニケーションという名のコミュニケーションについての物語。
が、ここでのコミュニケーションとは発声を伴う"会話"という、ごくごく限定されたものであり、映像の中でその制約が行われるだけだ。そして、夫(まんたのりお)の妻(あしかがあや)に対する手前勝手な愛情が映し出されている。
口論の末に殺害してしまった妻がゾンビとなって話をしなくなり、次第に愛しい者として、夫が改めて語りかけるようになっていく愛の物語だ。それはまるで赤子やペットに対するように物言わぬ者への一方的な愛情のようだ。相手は自分に対して腹立たしいことを直接に言葉として表現しなくなることで、すべて自分だけの解釈で相手が存在するようになる。この人間対人間のコミュニケーション機能を不具合にしてしまうことで、異なったコミュニケーションが生まれる。

ただ、この作品をコトバそのものの力や作用についてやコミュニケーションそのものの表現として観賞するには内容が浅くてつまらない。といって愛の物語にするには手前勝手すぎる。ホラーのようでホラーではない。どれもこれも中途半端でテーマそのものが見えてこないのだ。
最期にゾンビの口から舌がこぼれ落ちるのだが、これは人がわかりあうには、言語コミュニケーションでは無理だということを強く示したいことがわかる。ただ、聾唖者でも言語を持つようにただ発声しないことでそれを示すことは少し乱暴であり、浅いような気がする。ゾンビが無知を象徴しており、そこに感情はない。これはコミュニケーションそのものの欠落であり、それ以外のものはない。

言葉には悪魔が宿っている。
いや、言葉とは悪魔。