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どこまでもいこうのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

どこまでもいこう(1999年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 少年の主題、これの行き着く先はもう完全なる再現なのだなと。ノスタルジーという美化の伴わないダイレクトな幼少期をこうも目撃できるとは思わなかった。

 懺悔というか、自分の中で消えかけてた記憶があったので書く。小学生の頃、別のクラスの女子が病気で亡くなった。全く知り合いではなかったが、確か亡くなる数日前に絵を描く授業だったか何かで同じ教室近い席に座っていた。その時、ほんの少し話したような、話さなかったような、もう既に忘れかけているのだが。気弱そうだが、誰かと明るく話をしていた印象がある。葬式では、そんなに悲しみを抱ける仲でもないのに、急に鼻血が出てきて感極まったかのようになってしまった。他の人に比べたら、悲しみを抱けるに値しないからなんか申し訳ないと思いつつ、この異様な状況に興奮してたのも事実ではあった。数年後友達と話していたら、病気と聞いていたのは建前で、実際は自殺だったらしい。あの同じ教室にいた時、なんかやってやれることはなかったのかとか、その時色々思い返したりした。そもそも、知り合いじゃないし既にそのことを聞いた時ですら忘れかかっていたことで、本当は忘れようと薄情にも脳は思っていたのだろうけど。

 なんでこんな話を思い出したかというと、今作の野村くんの件と重なるところがあったからだ。今作の主人公アキラは、野村くんの葬式の代表者に立候補に手を上げなかった。それは、そもそもお金をたかりに野村くんに近づいたという動機や、彼の誕生日会をほっぽったことだったり、罪悪感が大きかったのだろう。というか、先生の「野村くんと親しかった人で手を上げる人いないか」という質問が酷だった。親しいって何なんだろう、自分は好意を特に向けたわけじゃないけど、野村くんはいつもアキラが話してくれるのを喜んでくれていた。ここでまた立候補しなかったことをアキラは悔やんでるようであった。友達って何だろう。大親友を優先して誕生日に出席しなかった罪悪感、友情は選択可能か。忘れた気でいた酷なことを、今、今作を通して見つめ直す。でも野村くんは、きっとアキラが罪悪感を抱えてようと好きなままだと思う、それはラストで彼の残した絵が示してくれるのだ(タイトルの凡庸さが、急に輝き出し、業となり、今生きる全ての背を押す)。走る二人を池を挟んで描いていた野村くん。悲し嬉し、こんなの切なすぎる。

 青空の下、遠くで花火の音が聞こえる。その弾ける音は親友だった光一だけでなく野村くんと飛ばした爆竹紙飛行機も連想させ、この空の下で二人の友を思うのだった。それは野村くんの書いた絵と対をなす。

 改めてタイトルが良すぎる。誰か相手に向かって言い合うようにも聞こえるし、自分を奮い立たせる意味もあるし、生きることが「行こう」という主体的な動きであることを思い出させる。

 ごめんね子供の頃の自分、お前あっての自分なのに、その上でこんなにあぐらをかいていて、ふとまた懺悔したくなる。子供ってあらゆる出来事を初めて経験するには脆すぎるのに、全部受け止めなきゃいけないから偉いと思う。そんなこと思い出させる映画だった。


P.S. 
 好きな女の子が振り向き顔でしか認知できない感じ、片思いかつ教室の中だなぁと思った。
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