河

悪魔のような女の河のネタバレレビュー・内容・結末

悪魔のような女(1955年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

主人公であるクリスティーナは夫であるミシェルに金銭、身体、精神あらゆる意味で搾取されている。ミシェルはクリスティーナの金で学校を運営し、自身は校長となっている。そして、その金を中抜きしていることも示される。

クリスティーナが虐げられていることが、ほとんど腐ったような魚を強制的に飲み込ませ、子供たち全員にそれを見させるシーン、そしてその後のほとんどレイプのようなシーンに強烈に映される。クリスティーナは信仰を持っており、信仰に反するため離婚をせず、その苦痛にひたすら耐え続けている。

ミシェルはその学校の先生であるニコルを愛人としている。ニコルもクリスティーナと同様にミシェルに虐げられているように見える。しかし、クリスティーナと違いニコルが虐げられていることはアザによって示唆されるだけである。クリスティーナに対してニコルもミシェルも信仰を持っておらず、地獄を信じるクリスティーナに対してニコルは信じない。

ニコルは同じくミシェルに虐げられた者として、クリスティーナをミシェルの殺害へと誘う。クリスティーナは信仰に反するためそれを拒否するが、最終的にはニコルによって夫に離婚を迫り、殺害に協力するように誘導される。ニコルによってクリスティーナは信仰に背かされる。

殺したはずのミシェルの死体が消え、ミシェルが生きているとしか思えない出来事が起こるようになる。クリスティーナは自身の信仰と殺人を犯したという事実の間で分裂するようになる。ミシェルが生きているかもしれないとわかる瞬間、鏡のついたドアが開き、クリスティーナが鏡に映る姿と現実の姿の二つに分裂する。そして、クリスティーナは教会に懺悔しに行こうとするが、それはニコルによって止められる。

結局、ニコルはミシェルから虐げられてはおらず、この映画で起きる出来事はクリスティーナを心臓発作で殺し、犯罪を犯すことなく金を全て奪うために二人が企てたことであることがわかる。この二人は悪魔のような存在として、クリスティーナを虐げ、信仰を捨てるように誘導する。

二人の企ての成功が決定的になった時「気高き我は震え、悪魔に負かされ、遂にその手中に」という子供の声によるセリフを背景に、明かりの消えた廊下で映っていたはずのニコルがその暗闇に紛れるようにカメラの前から消える。

この二人が悪魔だとすれば、元警官の男は司祭のような存在となっている。クリスティーナが教会に懺悔をしに行こうとしたすぐ後に現れ、最終的には死につつあるクリスティーナの懺悔を聞き赦しを与える。そして、二人が悪魔であることを暴く役割を果たす。

クリスティーナは死によって遂に悪魔による虐げから解放され、生き返る。ミシェルは死を偽装しただけだが、クリスティーナは一度明確に死に、蘇る。死んだはずのミシェルを見た子供は、パチンコで窓を割ったことによりミシェルによってパチンコを奪われ罰を与えられたと証言する。それに対して、死んだクリスティーナはミシェルによって奪われたパチンコをその子に返す。二人の死後の行動が対照的に置かれている。

学校が舞台であり、この監督の『密告』同様、子供たちは大人たちとは違う世界を持っているように映される。大人たちの間での出来事は間接的にその子供たちの世界へと伝わっていく。子供たちにとっては元警官の男がレミー・コーション(ゴダールのアルファヴィルにも出てきた私立探偵の主人公)に見えるなど、その垣間見える事実がフィクションと混同され認識される。同時に、ミシェルとニコルが悪魔でありクリスティーナが打ち負かされたこと、そしてクリスティーナが生き返ったことなど、大人には見えないものが子供たちには見えているような感覚がある。

「悲劇や恐怖を描く絵画には常に教訓がある」という冒頭の引用の通りの映画となっている。最後は「悪魔になるな、この映画で見たものを口外するな」というメッセージで映画が締められるが、これはサスペンス映画としてネタバレをするなという意味でもある一方で、教訓映画としての直球のメッセージにもなっており、さらにこの映画が子供の視点越しに映し出したクリスティーナの蘇りを指しているようにも感じられる。

ムルナウの『タルトゥフ』は悪魔のような存在(偽善者)に騙された男にそれを気づかせようとする妻についての映画を見せることで、偽善者に騙されそうになっている母に息子が気づかせようとするというメタ的な構造の話であり、映画の最初に引用があり、最後に「偽善者はこの映画を見ている君たちの隣にもいるかもしれない」というメッセージが表示されて終わる。この映画は騙し方は違うにせよ、騙される側の視点に変えた『タルトゥフ』なんだと思う。

影、そして長い廊下の演出はムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』含めたドイツ表現主義映画から引き継がれたもののように思うし、人を悪へと誘導する存在による自己の分裂、そしてそれが鏡によって表されるという点も共通する。映画製作者からの観客に向けたメタ的な語りかけもドイツ表現主義映画でよくある仕掛けである。

この監督は戦争が終わっても続く戦争と同じような状態を描いてきた監督のように思う。ドイツ表現主義映画が、戦争へと向かっていく社会においてナチスに代表される人々を裏側で操る存在、そして容易に操られてしまう人々の中の悪を告発する映画だとすれば、この映画はドイツ表現主義映画を再度作ることで戦後にも社会が同じような状況にあることを示そうとしている映画のように思う。

この監督の戦時中に作られた『密告』はフリッツラングの『M』をフランスで作ったような映画だったが、そのフランスの人々の描き方とナチス時代のドイツ資本で作られたことによって、この監督が数年フランスで映画を作れない状態になったらしい。『恐怖の報酬』の成功によって、その『密告』以来遂にドイツ表現主義的な映画が作れたのがこの映画なんじゃないかと思う。

この映画がヒッチコックの『サイコ』に繋がっていったんだとすれば、ドイツ表現主義映画から今の商業映画へ至る道筋の一つが見えるような感じがする。一方で、この監督が引き継がなかったドイツ表現主義映画の側面、特にムルナウ的なショットの霊感みたいなものはその後の商業映画にも引き継がれていかなかったんだろうなと思う。

ドイツ表現主義の手法を用いつつも脚本のうまさによって、サスペンスという言葉の由来そのままの状態に観客を置くのがうまい監督で、ドイツ表現主義的な主題はモチーフの配置によって語っている監督というイメージ。
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