ニューランド

うなぎとりのニューランドのレビュー・感想・評価

うなぎとり(1957年製作の映画)
3.7
☑️『うなぎとり』及び『からゆきさん』▶️▶️
いわゆる一般の商業映画二本立てではなく、児童映画としての、別枠⋅興行というより教育⋅啓蒙?の質を問われる作品だが、それにしても戦前は極めて意欲的で柔らかい才気に満ちた感はあった作家だが、戦後もかなり経っての、メインを外れた位置で、これだけいきいきしてて、嘘のないものを作れるとは。とは云っても、戦前の作品をそんなに何本も観たわけではないが、元々の力量、今ある眼前の物から世界を拡げる好奇心と突っ込み、感心した。
細かく正確にショットは、対応してるレベルではない。しかし、描写に必要なカットは全て押さえてるし、その構図は力強く張りがある。しかも、オールロケーションなのだ。それは大変な難敵だが、逆に魅力的な味方に変えている。田んぼの草取り作業、雨漏りするあてがわれた小屋、河⋅河岸や⋅その対岸に絡み動く子どもら、鰻取りの仕掛けと捕えるディテールとその鰻らの後での金銭化、善意⋅好意⋅感謝の土に馴染んだ生活と撮影の現実から普通に、交通手段使わぬ代表の大人引率の⋅近くはないの海迄の子供らの歩いてく列、海ではしゃぐ解放感と映画枠の歓びの突き破り。切返し⋅アップ⋅フォローやパン、Lやアングル⋅自然自体のスケールとダイナミックな懐ろ、単純に囃す音楽、ロケと思えぬ映像の構築力。
西日本のどこかの山村、いつもの老人に代わり、その嫁が村の田の草取りの季節に、手が回らない村人の助っ人に、小学生の息子とやって来る。彼女の明るく献身的な姿勢が、息子と村の子供たちとの絆も作り、夏の子供らの海水浴の引率者(本人へは慰労)に推挙される。
望月優子主演だが、自然のうねり⋅息吹き⋅立体力、そこに生き⋅安らぎ⋅造るを協力の人びとの意気と丸み、似てもいる空気感の『ノマドランド』を上回る程だ。
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もう1本、戦前のこの作家が、第一線にいた頃の『からゆきさん』。これが今1つわからない。明治39年に当時の有力な外貨獲得手段だった、「からゆきさん」として南洋に向かうヒロイン。大正9年、出身地の九州に、仕送りを続け⋅自身も財を成して、西洋人の夫との遺児を連れ戻って来るも、村(としても、海外売春婦に頼ってた過去を切り捨てたく)の冷たい対応⋅仕打ち(村を離れた所にからゆきさん同士で固まって住まされ、公民館建設寄与の、故郷への執着⋅この地での息子の成功念願を宣言の、晴れ舞台にも、村人らの反発行動に沸上がり。ヒロインは、立ち上り⋅抗議する)に、数少ない理解者⋅公平な教師に従い、この地を離れる(亡夫の兄弟の導きで英国へ)。
まるで30数年後の、戦後感も定着しての、山崎(朋)の著作⋅今村のTVドキュメンタリー⋅熊井の劇映画らの連打ブームを先取るような、国家政策⋅共同体の狭量に、無力も敢然と対峙⋅批判するような内容。それが大スター入江のプロダクションで作られた事。しかし、1時間に充たない興行にも適してないランニング⋅タイム。しかし、構図⋅カメラワーク⋅モンタージュ⋅動感⋅抽象性は、世間一般に理解を求めるというより、一致点探さず挑むようなトーン⋅表現の硬質さ。
映画史に疎くて申し訳ないが、この作品の成り立ちの方に興味わく。まぁ、単純に考えれば、戦前社会は決して暗黒社会ではなく、今と変わらぬくらいには、(少なくとも人の心には)自由⋅正義の息吹きは存在してた、という事だ。
じつを云うと、お目当てはこのプログラムの1つ前の、田中絹代監督の後期の作の再見で、用事で開映時間に少し遅れ、入れてもらえかなかった(10余年、絹代監督作品を観てないが勿論、どれも傑作乃至はそれに近い、真に凄い作家だ。俳優として名を成した後、監督デビューした人では、佐分利やイーストウッドに肩を並べる。リーフェンシュタール⋅山村⋅レッドフォード⋅ブラナーらより優れてると思う)ので、居残って次のこの番組を観たのだが、悪くないどころか、貴重な手応えとなった。
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