Jeffrey

達磨はなぜ東へ行ったのかのJeffreyのレビュー・感想・評価

達磨はなぜ東へ行ったのか(1989年製作の映画)
5.0
「達磨はなぜ東へ行ったのか」

〜最初に一言、超絶大傑作。私の韓国映画ベスト一位となった迸る禅についての話…主観的な描写は優れており、説明も議論も排除し、映像で我々観客に理解を求める。勝手ながらに本作を知らずに韓国映画を今まで語って来た自分がどこまでも恥ずかしい。東洋的な目覚め、仏教の教え、耳朶と荼毘が脳裏から離れない…圧倒的大自然の美しさと神秘的な火、水、音の要素は息を呑むほどに、そして森羅万象全てがこの作品にはある。あまりこのような言葉を使うのは好きではないが、あえて言わせてもらう。死ぬ前迄に見ておくべき映画だ。大傑作である〜

YouTubeにてがっつりと解説しております。

https://youtu.be/W_ZOn06--lA


冒頭、山奥深く、荒れ果てた小さな寺。年老いた禅の老師。若い僧と幼い孤児がいた。男の子は鳥に石を投げて傷つけた。川の流れに身をまかせ、牛が道を正す。盲目の母と妹を残し出家した青年、火、風、土、水、木々。死、装束、僧舞い。今、森羅万象全ては美しく炎の中へ荼毘に付す…本作はペ・ヨンギュンが八年を費やし創り上げた処女作で、一九八九年に監督した韓国映画史上の最高傑作で、この度VHSを購入して初鑑賞したが私の韓国映画ALL TIME BEST堂々の1位となった。これは凄まじすぎるほどの傑作であり、とんでもない映画である。これほどまでに傑作な作品が未だにVHSに残っているのが信じられない。どうやら発売元はシネセゾンで販売元はキングレコードだ。何とかしてこの作品をソフト化してほしい。なぜここまで私が絶賛するかと言うと韓国にも禅を問いかける作品があったのかと言うのがまず驚きである。題名は六世紀に達磨大師が東方へ渡来した意味を問いるようだ。ここまで作品自体が雄大な禅を問いかけ、神秘的で木々のざわめきから炎のはぜる音まで描写しているのに驚きと感動しかない。また繰り返すようだが、これがDVD等になっていないのに正直驚きを隠せない。

本作は八十九年のロカルノ国際映画祭でグランプリの金豹賞を受賞し同じ歳にはカンヌ国際映画祭ある視点部門正式出品であり、キリスト教会審査員賞からバークレー賞、ヤング批評家賞、国際映画批評家連盟賞など数々の賞を受賞している。正直今まで様々な韓国映画を見てきたが、この作品を見ずに今まで韓国映画を語っていた自分が恥ずかしくてたまらない。やはり私は全然映画を見ていないなと気付かされた。よく周りからシネフィル(映画狂)ですね、と言われるがそんな事は全く持ってない。兎にも角にもこの作品の地、水、火、風そして森羅万象全てが美しいの一言だ。もはや言葉で説明することができないほどの傑作である。まずは観て欲しい。私が今までー番好きだった韓国映画でオールベストの一位にしていたのが、同じく岩波ホールで上映されていたイ・ジャンヒャン監督の「おばあちゃんの家」だったが、令和三年にして「達磨はなぜ東へ行ったのか」が私の韓国映画の一位になった。

ここで注意書きだけど、私が絶賛しているからといって面白い映画と勘違いしないで欲しい。あくまでも仏を描いた作品で非常に地味で、静かで暗く、静謐な映画で娯楽映画に慣れてる方が見たら退屈極まりない作品である。近年のアクション、サスペンスの良質な韓国映画とはー線を超えている。そもそも韓国映画は一九二〇年代の後半から韓国映画の伝統的な悲劇が多く作られてくるのだが、本作に限ってはほとんどー人の人物が個人映画として作っているため、本来の韓国の映画産業とは関係のない映画とも言える。それが大傑作であるのだからこの一人の作家がいかに凄いのかがわかる。他に私は韓国の監督で好きな監督がいて、イム・グォンテクと言う人物で、彼もまた本作同様に禅宗の尼僧を描いた一九八九年の作品「ハラギャティ」と言う映画があるのだが、これも傑作で、確かモスクワ映画祭で何かの賞受賞していて、残念ながらこちらもVHSのままで、私はつい最近ビデオを購入して初鑑賞したのだがすごく良かったのだ。その関連でグォンテク作品を色々と鑑賞したのだが結構素晴らしい作品が多くてびっくりした。

同じアジアなのに、日本ではほとんどキリスト教が浸透していないが、韓国はものすごくキリスト教が多いのはご存知の通りで、そういった内容の映画も多くある。宗教的な主題で傑出した作品もいくつかあり、プロテスタントの信者である監督も多くいる。そうすると今考えると現在の韓国映画でも宗教的な主題がほとんどを占める中、非常に韓国映画にその要素は大きな特徴のーつになっているなと改めて思った。社会的批判的な主題を政治イデオロギー的な立場から扱う事が禁じられていた時代ではない今日に至っては、全てが開放的に描かれている。中にはシャーマニズムにも深い関心を寄せている作品もあるようで、私はまだ見ていないが「馬鹿宣言」なども気になるところである。長々と前置きをしが、ここから物語の説明をしていきたいと思う。



本作は冒頭に、赤いランプが点滅し、けたたましい警報機が鳴る踏み切りの前に立っている男性が写し出される。後ろに止まっていたバキュームカーが大きなエンジンの音を立てて走り出す警笛が鳴り、電車が男の目の前を通過していく。カットは変わり寺へ。障子から差し込む明かりだけの薄暗い部屋。誰かの声が聞こえる…さて、物語は山奥深く、荒れ果てた小さな寺に、年老いた禅の師ヘゴク、出家したばかりの若い僧キボン、そしてみなしごの男の子ヘジンの三人が暮らしていた。ヘジンはつがいの鳥の片方を捕まえようと、石を投げて傷つけてしまう。その鳥をこっそり飼おうとしたのだが、鳥は死んでしまった。つがいだった鳥の片方はヘジンの後をずっとついて回り、彼を怯えさせる。ある日、崖から落ちたヘジンはしばらく水の中でもがいた末、やがて静かな流れに身を任せて見知らぬ岸辺にたどり着く。山道に迷い込んだ彼の目の前に、一頭の牛が現れた。彼は牛の導きによって無事寺に戻ることができ、牛は森へと消えてゆく。青年僧キボンは魂の自由を渇望し、目の見えない母親と妹を貧しい街の家に残したまま、この寺にやってきた。老僧ヘゴクは心の中の月を見つけ出し、四方を照らし出せばその光は影のない光明となるだろうと諭す。

ヘゴクは人里から離れたこの寺を守っており、修行のために氷壁の前に座り続け、凍傷を悪化させてしまうほどに、自らに苦行を課している。そして病もまた修練不足によるものであり、老体はもはや捨てるべき時が来たと言う。キボンは師の薬を求めて山を降り、その折に実家を訪ねる。傾きかけた家の中で、一人動けずにいる母親の姿に、彼の苦悩は再び呼び起こされた。揺れ動く心を持ったキボンをヘゴクは諌める。激流で修行を重ねていた彼は、流されそうになってヘゴクに救われるが、逆にヘゴクの容体は重くなってしまう。老僧は迫りつつある死を感じて生にも死にも固執するのは無意味である、死んだ後は肉体を自然に返すよう、そしてひと晩のうちに茶毘に付くようにキボンに命ずる。

そしてある晩、山の麓の大きな寺でキボンとヘジンが、白い装束の幽美な僧舞いを見ている頃、ヘゴクは寺でひっそりと息を引き取っていた。言いつけ通りにキボンは師の亡骸を長持ちに納め、一切の儀式をせず、山中に枯れ木を積み上げて火を放ち、一晩かかって燃やし続けた。炎に照らし出されて、キボン、ヘジン。牛や鳥たちの顔が浮かび上がる。暁が訪れた時、炎は全てを焼き尽くしていた。キボンは灰をかき集め、骨方を細かくすり砕き水に、木々に、風に撒き散らして行く。師ヘゴクの形見の衣服をヘジンに預け、キボンはさまよえる牛を引き連れ、朝焼けの川を渡っていく。ヘジンはその形見を火にくべて、個人への執着から解き放たれる。そしてそれを見ていた鳥もまた、空高く飛び去っていった…とがっつり説明するとこんな感じで、山奥の小さな寺に暮らす年老いた禅の師と出家したばかりの若い僧侶、そして身寄りのない幼い少年三人の日々の生活を美しく厳しい自然を通して、静かに描いた作品である。


いゃ〜、やっぱり韓国の文化で形見を持たないと言うのは本当らしい。この作品でも師匠の形見を炎に投げ込んで個人への執着から解き放たれていた。日本とはまるで違う。日本と言うのは個人の形見を大事に保ち続ける文化がある。それにしても目の見えない母親と妹を町置き去りにして出家する青年の気持ちと言うのは果たしてどのような気持ちなのだろうか。もし自分がその青年だったら、二人を街に置き去りにはしないと思う。だが、真の自由を求めて山寺にやってくる彼の気持ちもわかる。でもそもそも論を話すと、仏教の本義は修行を通じて悟りを開くことにあり、そのためにあらゆる煩悩に関わる世俗とのつながりを一切断ち切ることが原則であるため仕方がないが、彼は家族に会ってしまっている。禅宗は、瞑想を通じて悟りに至る修行のあり方を徹底的に方法化した宗派であるが、その先祖である達磨大師は、インドに生まれて東の中国へやってきた。達磨はなぜ西からやってきたか、これは理屈では答えの出ないといと言うことに禅ではなっているようだ。

そうすると、主人公の青年僧キボンを完全な悟りの極致に至らせてない要因の一つに貧しさで苦しんでいる目の見えない母親と妹を見捨てたままにして出家してしまったことであろう。だから彼は修行に励んでいるも、彼の求めるひたすら悟りの極致が完璧な探求でできていないのだ。それには罪の意識がある。家族を置き去りにしたと言う事柄である。普通の感覚の人間では家族を助けたり援助したりするのはごく自然な事だとされているのが、彼はそれをしないのである。悟りと言うのは一般常識が通じないのである。これが宗教的熱狂者の性と言うものだろうか、なんとももどかしいと言うよりか、探求者の代償と言うものなのか、なかなか考えさせられる映画である。しかもほとんど台詞がなく、映画全体のイメージや雰囲気でメッセージ性を感じて行かなければならないため、我々観客も僧になった気分である。そもそも自分一人だけが自由を求めて目の見えない母親と妹を捨てたままにして何が自由なのかと思いつめ、心が揺れるシーンは圧倒的な場面である。たまたま実家によって母親の姿を見たときのショックは計り知れないだろう。しかしながら山奥で一人(現代人には耐えられない氷壁の前に座り続けて凍傷を悪化させるまでの生やさしい修行をしてこなかった老師にとっては)で住む師はそんな事は問答無用で、錫杖(僧が持つ杖の事)をふるうのである。

人里離れたこの寺を守る灯台のような存在である老禅師の言い放つ言葉(セリフ)はこの作品のキーポイントになることが多い。そして幼い少年は誤って殺した鳥を見て、その日から死の恐れと生の不思議さに目覚めていくのだが、なんとも純粋である。そして後にこの二人は老禅師の死をきっかけに、それぞれが悟りへの一方を踏み出すまでを描いている。映画ではあまり明かされていない幼い男の子は孤児なのだろうか、とりあえず山寺の雑用をしたり、鳥にまとわりつかれたあり、崖から落ちて川の水に溺れそうになったり、だがその溺れるシークエンスで何もせずに川の流れに身を任せる場面はこの映画の圧倒的シーンの一つだと思うのだが、身を任せたことで助かったのがその少年を大きく成長させる要因の一つである。その後に起きるのはまるでドライヤーの「奇跡」を見ているかのような"奇跡"が彼を救うのだ(誰かが蘇るとかではない)内容はネタバレになるためここでは言及しない。

老師の言葉や行いを見ると、病に倒れ自分が死んだら修行の完成と言わんばかりの感じがしてならない。だから弟子が自分の灰を撒くように指示して遺言通りにやらせるのだ。そして岩にすがって座禅を組むキボンの姿や病に倒れた老師を一夜のうちに火葬して灰を地に撒くと言うシーンなども印象深いのだ。この作品暗い場面があるのだが、VHSの画質だと何をやっているかわからないのが残念だった。岩河での子供たちによる戯れ(危険な遊び)のスローモーション撮影は印象的で、その後にそこでで坊主の少年が水に浮かぶロングショットが美しい。ちなみに韓国語で知識や意識ってそのまま日本語と同じなんだね呼び方。他の伝統衣装(装束)身にまとってお寺で踊るシーンはすごく日本的である。(韓国からすれば韓国的になるだろうが)。あのほぼクライマックスで炎が立ち昇り、燃えて、さらにロングショットで風光明媚な風景をロングショットで捉えてあの終わり方、なんとも余韻に残る。

どうやら監督は八十一年にパリで「達磨はなぜ東へ行ったのか」の製作のインスピレーションを得て、シナリオを書き始めたらしい。撮影に三年、編集に一年半以上かけて完成させたそうだ。この映画何が凄いってまずスタッフ欄を見てみると、監督、脚本、制作、撮影、美術、編集全てがヨンギョン監督であり、唯一音楽がチン・ギュヨンとクレジットされている。今の韓国映画は圧倒的に西洋の影響受けているが、もちろん昔の映画もそうかもしれないが、この作品は伝統文化に対する大切さを忘れずに、精神的世界へ回帰しているのが非常に良かった。まさに特異な映画である。主演の三人はすべて素人であり、キリスト教会の長老だったりサラリーマンだったりロケする寺を探しているときに見つけた少年を出演させたそうだ。本作は六世紀に達磨大師がインドから中国へと渡来したことの意味を問う禅問答の公案"祖師西来意"(達磨大師が西方から来たわけ)を踏まえたタイトルを持っており、三人の主人公の模索の過程や、さまざまに変化する自然を見つめ、人間と自然の対話のうちにこそ求めるものがあるのではないか、と静かに語りかけている内容である。


にしてもこの映画の炎の美しさはたまらない。哲学を語る映像と言っても過言ではないほど哲学に満ちており、ジャンル分けするなら哲学映画とするべきだろう。先ほども言ったが達磨大師によって中国に伝えられたこの禅は、それぞれの国で国民性から始まり文化の特性や気質などに合わせた独特な発展の仕方を見せていく。そして、今回私が見せられたのが韓国による根本的な特性(禅)についての映画である。日本の禅とは違い、韓国の要素が入っている違う形での禅が見れて非常に良かった。芸術や生活様式の中に入っていくような感覚がある。日本の場合だと、弓道、剣道、茶道、華道、庭園作りなどもそれらの一種とされている。この映画に出演している老師が実際にキリスト教会の長老であると言う事は先ほど述べたが、実際仏教の話にキリスト教の方が出演交渉に応じたと言う事実もまた凄いなと思う。監督自体仏教にもキリスト教にも偏見を持っていないとは思うが、この作品は伝統的宗教の持つ哲学を芸術として描いている。この作品は最後に読経の曲調がアリランになっているっぽい。深い民族に関わる事を伝えた韓国ならではだなと思う。

本当に近年は西洋化しつつあり、ものすごく居心地が悪いのだが、東洋的なものに目覚めているこの作品は非常に良く、私は伝統的な文化や宗教や芸術から哲学までを重んじている身なので、この作品の価値観はとてつもなく大きい。確か監督が岩波ホールにて記者会見中に音楽を担当したスタッフと大変口論繰り返した末に音楽を仕上げたと言うことで、かなりの苦労を積み重ねて音楽を作ったんだろうなと。さて物語に話を戻すと、この作品は言葉通り老、若、幼の三世代の修行僧の日常生活を通じて、禅の世界を描いていて、日本の仏教徒はもちろんのこと、そうではない方々はもうぜひとも見てほしい。自ずと自らへの警鐘をうけるはず…。この映画を見るといかに汚染されている現代に生きているか生々しくと見せられる気持ちだ。やはり人間が物質世界のみに目を向けている事は完全に間違っていると、心の静けさとは果たして何なのだろうか、とこにあるのだろうか、自らの肉体をどこへ置いて行くのか…私も近々森へ一人で行きたいと思わされた。まさに傑作である。とんでもない映画を見てしまった。ここまで凄いとは…あぁ傑作。
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