古川智教

美しき諍い女(いさかいめ)の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

身体をポーズによって歪なかたちに固定、拘束し、モデルの内面以上の真実を空を破壊するほどの力を持った描線によって画布に描き込むこと。それは取りも直さず、対象となったモデルの内面を崩壊してしまうことを意味する。果たして、芸術でありさえすれば、このような行いは許されるのか。かつて、リヴェットの身体性とはまた異なるが、偉大な身体の映画監督ジョン・カサヴェテスは「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」の撮影でベン・ギャザラにいくら映画の中だからといって、人を殺したくないと言ったそうだが、この一言こそ映画において追求される真実とそれに伴う倫理性の核心に迫る言葉はないだろう。また、カサヴェテスは映画の中でセックスシーンを撮ることは不可能だとも言っている。いくら画面上にそれらしき映像が映し出されても、それが現実の営みをそのままに感じさせることはできないという意味で。これは単純に昨今言われているような撮影現場の労働環境やセクシャリティなどの倫理性の問題というだけではない、映画表現の核心部分で問われなければならないことなのだ。「美しき諍い女」においても、芸術における真実の追求か、それとも現実における倫理の重視かの二者択一ではない問いを立てなければならない。別々の問題ではなく、ひとつの問題として、映画内での物語や俳優の演技、ショットや編集の選択を含めた全体の表現において。ミシェル・ピコリ演じる画家は知られざる傑作として絵を壁に塗り込めて隠すことを選択するが、それはあくまで一登場人物の下した最後の選択であり、映画は四時間にわたって画家の選択へと至る全過程を綿密に描き出そうとすることで、映画自体をひとつの問題として立てようとしている。身体の映画とは、必然的に身体の倫理が問われ、倫理の映画へと転じなければならない。
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