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友だちのうちはどこ?のroppuのレビュー・感想・評価

友だちのうちはどこ?(1987年製作の映画)
4.5
学校から間違えて持って帰ってしまった友達のノートブックを、隣の街まで歩いて届ける少年の話。

少年の存在を少年だとしてしか見ない大人世界の理不尽さ、幼い子ども目線だからより大きく見える道端の世界、家や街の境界線を純真無垢な親切心だけで横断していくあの歩幅、それは小津映画に見られるあの兄弟たちのような大人への反抗と重なる。

イントロで見せつけられる学校での絶対教育では、次やれば退学処分だぞと脅され泣く少年がおり、それを周りで見つめる少年は、家の外世界で見る社会のディシプリンに自分の行動原理を認める。これだけが、この映画を動かす唯一の質なのだから凄い。実は僕たちの生活の運動にもこれっぽっちも理屈の通らないルールと事務作業だけの動機が働き、僕たちはやってるフリだけして生きている。

"自発的"に決断する人間の意思は、年老いた概念と観念で生きてきたジジイの選択よりもはや力強い。それは大人の価値判断では理解されない、宇宙が爆発するほどの重大性が必ずある。
この少年はモハンマド・レザー・ネマツァデを見つけ、ノートブックを返すまで諦めない。でなければ、友達が先生に怒鳴られるから。でなければ、また泣いてしまうから。でなければ、退学処分を食らってしまうから。それだけである。一切のコメンタリーや深読みはこの映画を殺しかねない。

『走れメロス』が、他人の優しさ、暴虐な権力、自然の不条理と僅かに持ち合わせた知性によって悩まされ、かつ成長していく話だとすれば、これは「生そのものが生なのだ」というようなそんな話である。

この少年もまた、人々を置き去るが、出会う人々は悪い人ばかりでもないのであった。
ドア修理にしろ窓の取替にしろ、本来資本によって動かされ人々がするものでなく、よって国国家が言うからやる労働ではない。人々が定住し、共に暮らし、その過程で産まれた創造物と一緒に人間の身体が共鳴する。それらを奪っていく鉄のドアとは、それらを取り替えていく権力とは。ゆっくり歩くおじいさんの歩幅と知がそれを語っている。
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