Foufou

東京公園のFoufouのレビュー・感想・評価

東京公園(2011年製作の映画)
2.5
おそらくはフィルム撮影ではない、クリアで硬質な絵に当初は違和感を感じるものの、いずれ慣れてしまうもの。というか、演出上のいくつかの違和感こそ捨ておけず、画質にこだわるどころではなかった、というのが正直なところ。

コンタックスのツァイスのレンズから覗く、青みががったような明澄な世界の再現として、あの画質はあったんだろうかとふと思い至るのですが……。ただ、それも後付けの知識が教えてくれることで。

「三途の川が線を引く」という関係がいくつか明示ないしは暗示され、その関係の輪が重なって、やがて螺旋のように広がっていく。そんなイメージが先ずあっての脚本だったろうか。綺麗な役者たちが、綺麗な世界を構築していく。見ようによっては、人間関係のドロドロを回避するが故の、螺旋運動だったとも取れなくはない。そこにまた、食い足りなさが起因するのかも知れず。

音楽の使い方も得心されず。いや、なんでだろう……とつい考えさせられてしまう。今泉力哉や濱口竜介の音楽の使い方に違和感を感じることはまずないんだけど……。美しい音楽が、役者の感情表現を押しのけて過剰にかかる場面があるかと思えば、無音が支配したり。もちろん意図的なんでしょうけど、わかるような、わからないような。わからなくても困らないし……。

カウンターの二人の背中越しのショットや三浦春馬と榮倉奈々の対話のそれを観て、映画による映画の引用ぶりなんかをつい語ってしまいたくなりますが、やはりそれがある種の感動の表明であるためには、物語の力によるテンションの高まりは不可欠なわけで、こちらはほくそ笑みこそすれ、わからん人にはわからんだろうな、とまでは擁護できないといいますか……。

榮倉奈々の、瞼の母のくだりは、セリフがあまりにもこなれてなくて、観ていて痛い。同じく榮倉奈々が感情的になって山と積まれたDVDを畳にぶちまけるシーンがございますが。その後、画面の隅にカール・ドライヤーの『Vampyr』のパッケージが映り続けるんですけど、こういうのもちょっとうるさいんじゃないかな、と。

パーティーシーンでの島田雅彦の出演なんかも、ある種の目配せなんだろうけど、うるさいというか、もはや古さを帯びることさえ許されなかった90年代の日本文学に憐れみしか感じないというか……。これは言い過ぎか。というか、一分かそこらの出演でその演技の下手さを露呈してしまう事態について、考えさせられてしまいました。

ただ、目配せ=ご愛嬌とやり過ごせばいいだけの話で、そこにこだわるわけでは無論なく、やはり残念なのは、片恋の情とか、嫉妬とか、慚愧の念とか、そうした男女のあいだに生じる感情の彩模様ですよね。観ながら切なく狂おしく掻き立ててほしいわけですが、それがかなわいというのがなんとも。三浦春馬は小西真奈美につけ込んでる感じがするし、小西は小西で、まったく深みを感じさせない演技に終始する。なんで惹かれ合うのかもわからない。あり得ない、がやはり先に立ってしまうのではないか。

男がひとり、昼下がりの公園の古木の根方に埋もれて酔い潰れている。いいじゃありませんか。しかしですね、美しい絵を撮り続けても、こちらの心の深部にはついに届かないまま、ひたすら上滑りしていくとでも言いますか。

高橋洋のチグハグな体躯が、とても「アルマーニのスーツに身を包んだ男性」という榮倉奈々の証言を裏付けるものでないという事実が、すべてを象徴しているようにも思えます。
Foufou

Foufou