ずどこんちょ

エレファントのずどこんちょのレビュー・感想・評価

エレファント(2003年製作の映画)
3.5
1999年にコロラド州で起きたコロンバイン高校銃乱射事件をテーマにしたドラマです。
登場するのは何ら変哲もない、いたって普通の高校生たちでした。世間を震撼させる事件が起きそうな治安の乱れた環境でもありません。他の多くの学校と同様に、普通に友人と雑談する生徒たちがいて、普通にいじめを受けて孤立している生徒たちがいるのです。
それがやがて、"普通"ではなくなるとも知らずに。

冒頭、校内を歩き続ける生徒たちが長回しで描かれます。冗長に感じるとも言えます。教室から教室へ移動する過程なんて、いくらでもカットできる。
でも、そこに映し出されている景色、彼らが見ている景色はいたって普通の高校生たちが日常を過ごしている時間なのです。
すれ違う人、廊下で立ち話している人、屋外で休んでいる人、すべての人たちが何気ない日常を過ごしているのです。
ここで映したいのは歩いているメイン人物ではなくて、その周りに映り込んでいるピントも合っていない人々なのだと感じました。

それから事件発生までの間、時折、現在時刻が分かる会話や時計が映り込んでいました。
実際の事件や災害を描いた作品でよくある演出ですが、運命の時が刻一刻と迫っているのを感じさせるのも緊張感を少しずつ高めていきます。
事件発生の午前11時過ぎ。ドラマはその時間に近付いては、また違う高校生の視点に移って遡り、再び同時刻に近付いていきます。

複数の視点が混ざり合うことで校内の当時の登場人物たちの現在位置も何となく見えてきます。
さっきすれ違って挨拶を交わした相手が、今度はメインになって彼の動きを追っていく。何気なくすれ違った誰かが、実は複雑な感情を抱えている背景があるというのが見えてくるのも上手い構成です。

そして驚くべきことに、大人の役者3人以外のすべての生徒たちが、実際の普通の高校生から選ばれた素人で、その何気ない日常を飾るセリフのほとんどが演じる俳優たちの即興によるものだというのです。
最低限の本筋に関わるキーワードと動き方だけ簡単に用意され、あとはアドリブ劇。
確かに彼らの会話劇、物語のメッセージや伏線などにはまったく関係なくてダラダラと続いていくんですよね。誰と誰が付き合ってるとか、ドレッシングは油分が多いから食べないことにしたとか…。
別に伏線だとか前後の物語の展開とかはまったく意識されておらず、その場限りの取るに足らない雑談が展開されていきます。
だからこそ、事件が起こるまでは日常的に続いていく学校生活の一幕だったというリアリティを感じさせます。

犯人2人の背景だけは学校外まで描かれているのですが、それもまた細かい心情表現があるわけではありません。
分かったのは、学校でいじめられていたのだということ、そしていじめに対して耐え難い怒りを感じていたということ。
2人は親密な仲であり、通信販売で銃を手に入れ、試し撃ちできる程度に保護者の監視はあまり働いていないということ。入念に下調べをして作戦を立てていること。
それだけです。彼らは私たちに見えている範囲の情報だけで凶行に及びます。動機も問題の背景も詳細には語られません。
それは、実際の当事者たちが現場で自殺している現状から見ても、他者が彼らの凶行の背景を「考える」しかないからなのでしょう。
見えている情報から考え、考えられる問題を浮き彫りにさせること。導き出した答えは正解かもしれないし、不正解かもしれません。
それがこの映画が提示した唯一のメッセージなのです。

いじめを受け、犯行に及んだアレックスはクライマックスで学校の人気者であるネイサンを見つけ出します。
まるでネイサンが最も狩りたかった獲物であるかのように、怯える恋人と命乞いをするネイサンに銃口を向け、「どちらにしようかな…」と弄び始めるのです。
これまで視界に捉えた人々を次々と撃っていたアレックスとは思えない残忍さです。ネイサンを追い詰めたことに喜びを感じているのです。
それは、学校の人気者であるネイサン自身が、いじめの主犯格の一人であったことを示唆します。以前、クラスでアレックスにバナナを投げつけた時も仲間内で楽しんでいたのですから。

アレックスの共犯になったエリックは校長を撃ち殺す前に「いじめの相談を受けたらしっかり話を聞け」と説教します。
この学校では、いじめの存在が認知されていても、教師たちはほとんど手をこまねいていたのでしょう。
そればかりか、いじめ加害者であろうネイサン自身が、学校ではスクールカーストの上位に位置し、チヤホヤされています。
アレックスやエリックが、ネイサンや活動的な目立つ生徒に対して激しい恨みや嫉妬を覚えるのも無理はなかった。そして、その環境が改善されないままに放置されていたことに怒りを覚え、やがて個人的な復讐心は過剰な破壊衝動と自殺願望へと代わり、2人は凶行に及んだのです。

本作では運命の時が来るまで淡々と生徒たちの何気ない日常や風景が描かれます。ほとんどがそのシーンです。
穏やかに過ごす生徒もいるし、孤独感を抱えている生徒もいます。しかし、どんな生活であれ、その日常が暴力という不条理によって一瞬で崩れていくのです。
この学校で悩みを抱えていたのは犯人2人だけではありません。アル中の父親に頭を悩ませている少年や、孤立して周囲から罵られている少女もいます。
決して楽しいだけが学校生活ではありません。にも関わらず、どんな日常を送っていた生徒であっても、彼らの暴力に巻き込まれていくのです。

これが何より胸を締め付けました。まさに不条理。
おそらく犯人2人が暴力によって破壊したかったメインターゲットは、ネイサンらのように学校を謳歌している周りすべての人々です。
しかし、犠牲者の中にはきっと彼らの言葉に共感できた生徒もいたのです。それで事態が解決するとは限りませんが、語り合えば、少しは慰められるケースもあったことでしょう。凶行には及ばなかったかも。
ですが、2人にはそれができなかった。周りを頼りにすることも、声を上げることもできず、2人だけで追い込まれていったのです。
犯人に同情する余地はありません。どんな状況であれ、やはり暴力は認められません。ですが、犯人と共に孤独感や悩みを抱えている人たちは他にもいて、凶行に及ぶまでそこが繋がることができなかったことには悔しさを覚えます。

学校へ襲撃に向かう途中の車内で、犯人たちの呼吸音が聞こえてきます。
彼らも息が深くなっている。明らかに興奮してるんですよね。
アレックスもエリックも戦場で銃の扱いに慣れた手練れの傭兵などではなく、ただの高校生です。ただの経験値も少ない10代の少年なのです。問題を解決する手段が破壊以外に他に思いつかないままに追い詰められていた、未熟な少年なのです。
それがまた妙な戦慄を覚えさせます。

コロンバイン高校銃乱射事件の加害者の一人の家族は、その後、手記などを出版するなどして「犯罪者となった息子の母親」として活動しています。
自分の家族が凶悪事件を起こすという兆候はなかなか見つけられるものではなかったこと。学校でいじめを受けている、いじめているといった情報は簡単に目に見えるものではないことなどの思いを伝えています。だからこそ、親子のコミュニケーションを大切に持つことが求められるのです。
自らの言葉にするに至るまで、どれほどの後悔と絶望を乗り越えてきたのでしょう。もっと話していれば良かった、もっと何か感じ取ってあげれば良かった。拾い上げていれば、救うことができたのではないだろうか。
そんな後悔を募らせて、今の活動に至るのだと思います。

本作では、まさにそういった明確に表に出すことができなかった犯人たちのメッセージを「考える」ことを求められていると感じました。