カラン

アクエリアスのカランのレビュー・感想・評価

アクエリアス(1986年製作の映画)
4.5
公演間近のミュージカルのリハーサル現場に、連続殺人鬼が闖入する。監督の指示で密室と化したスタジオでダンサーたちが次々と、、、ミケーレ・ソアヴィの長編デビュー作。

☆バベルの塔

イタリア語の原題は”Deliria”である。せん妄というやつで、突発性の精神錯乱のことである。殺人鬼との遭遇でスタジオにいた全員がショック状態に陥ったということだろうか。その『せん妄』はイタリア公開後にはさまざまなタイトルで各国に配給されたようだ。現在の英題は”Stage fright”で、「ステージの上の恐怖」である。日本では『アクエリアス』で、水瓶座?である。このタイトルは主演女優によれば、ミケーレ・ソアヴィが思いつきで口走ったタイトルらしく、若い頃に映画界での辛苦を未だ監督になっていなかった彼と何年間か共にした末に、この映画に出演した彼女にも理解できないようだ。

低予算であるので、撮影スケジュールを管理できるようにオールセット撮影をしたらしい。本作の映画内空間は、どこかのようである。(^^) セリフは全て英語である。演者の口は英語の発音の口になっているが、微妙にずれる。アフレコしたのだろう。可哀想なイタリア映画というやつである。『デモンズ95』(1994)ではイギリス人の役者を主演にして、イタリア国内が舞台だが、全員が少し変な英語を喋っていた。舞台をイギリスにするのか、普通にイタリア語にするのかだったら、完璧な傑作であった。このデビュー作の方は舞台をどこだか分からないミュージカルのスタジオでの密室劇としながらも、英語のアフレコにした結果、音声が微妙にずれて、演技がいくらか白々しく見えるという不幸をもたらすことになった。

この不幸が分からないのは良くない。意図せずに帝国主義的グローバリズムに加担しているだけではない。映画の撮影で役者たちにくつわをくわえさせておいて、良い演技をしてみろなどと要求してどうする。セリフは意味内容が全てなのだと根深い勘違いをしているから、言語的選択と発声というアクションを等閑視できてしまうのだ。

なお、現代社会では、グローバリゼーションというのは冷戦化での西側諸国の多国籍企業の発達とともに始まったらしい。ラピュタの一撃みたいので、バベルの塔を破壊されないと分からんものか。


☆映画の空間と精神の接続について

本作は、惜しいが、素晴らしい。イタリア人キャストにも英語セリフにして、舞台をどこだか分からなくしているのが、実に残念ではあるが、素晴らしい強度で画面を構成する。ところで、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』は、いつとも分からない時にどことも知れない場で(時空の不在)、誰とも知らない者を(目的の不在)待つ者たちの不条理な実存を描いた。この戯曲が面白いのは、ただただ待つという純粋な受動性そのものを主題化しているからである。時空の規定もなく目的論的規定もなく、人は生を確信できるか、というあからさまな思考実験のリアリティーが『ゴドーを待ちながら』の素晴らしさであるので、人生そのものがユートピア(不在の場)であるという不条理を表現しようとすると、すべからくこの戯曲に関係づけられてしまうほどの芸術的磁場を達成したのであった。

ゴダールの映画はオリジナリティの不在を引用ばかりのデタラメで埋め合わせようという戯言の寄せ集めだと思っている不幸な人がたくさんいる。映画の空間はベケットの真似をすればオリジナリティでいっぱいにできる。しかしベケットの真似をしないならば、完全にオリジナルな空間表現を映画において追求するべきではない。それはアニメーションでもおそらくそうなのだが、実写では特にそうなのだ。結局のところ、生身の役者が立って演技をする場所の真実とは、その場所そのものの真実性ではなく、鑑賞者の精神と接続する限りで生じる一過的な真実性だからだ。

そこでゴダールは引用をしきりに繰り出す。サルトル、デリダ、毛沢東主義、絵画論、演劇録、等々、何度でも引用を繰り返して、鑑賞者の精神に自らの描いた空間を接木する。次に海辺のロングショットをぶつければ、あの映画空間が定立されるのである。それがゴダールの映画空間の構築の仕方である。セリフの内容という抽象的な観念に囚われる非-映画鑑賞者を素通りして、映画のスクリーンに固執する鑑賞者に向けて、映画空間を規定するやり方は立派なオリジナリティである。

本作のセット撮影は、精神に繋がる映画空間を達成しない。モナド的に隔絶した密室セットで、アフレコにすることで、そのステージ上の恐怖が鑑賞者の精神内部に接続し切らない。想像で補う鑑賞者は別なのだろうが。


☆操業ゼロ

羽毛が舞うステージ上の椅子に惨殺死体を配置するのは、ミケーレ・ソアヴィが加えた演出であるらしい。これはジャン・ヴィゴの『新学期・操業ゼロ』(1933)だろう。舞い散る羽毛の嵐のなか椅子に逆回転で座すあのシーンである。本作はマックス・エルンストの鳥人が殺人鬼になり、マネキンやマスクを配置した密室でゴースト的不気味さを演出しながら、羽毛を撒き散らして、追いかけ回すスラッシャーである。シャワールームのライティングの生々しさが、鳥人のマスクとシャワーカーテンの返り血の禍々しさを悪化させているのが、胸を打つ。

Blu-ray。
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