りふぃ

ヤンヤン 夏の想い出のりふぃのネタバレレビュー・内容・結末

ヤンヤン 夏の想い出(2000年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

大学の講義で途中まで観て、結末を見ないままだったので数年越しに改めて視聴。

この映画はまさに傑作!
これを観ていない人生なんて考えられない!

何がこの映画を傑作たらしめているかと言うと、肝心なことが直接描かれていないことだろう。

※家族の続柄はヤンヤンから見たもの。
叔父が結婚相手ではない別の女性と結婚を前提にお付き合いしていたシーンも(結婚式に振られた女性が殴り込んできたことで初めて分かる)、
父が初恋の女性とお付き合いしていたシーンも(結婚式会場で偶然鉢合わせ父が責め立てられることで男女の関係にあったと分かる)、
母が新興宗教に遭遇するシーンも(父に教祖が直々に会いに来て信者を拡大しようとしていると気づき新興宗教だと気づく)、
姉が隣人リーリーの彼氏と付き合い始めたシーンも(ラブレターを受け取った後にいつの間にかデートシーンに移っている)、
リーリーが自身の母と体の関係があった英語教師と体の関係になったシーンも(テレビの報道で分かるとレビューしている人もいたが本当はもっと前から分かる。英語教師が「すみません」と慌ててリーリーの家から出てきてエレベーターを降りていった後、リーリーの母がマンションの玄関口にやってくるため部屋にいたのはリーリーだということが分かる)、
リーリー/姉の彼氏が殺人を犯すシーンも(サイレン音とテレビの報道で分かる)、
ヤンヤンが人の後頭部を撮っているシーンも(父がヤンヤンの机の上で現像された写真を見つけて初めてそういった写真を撮っていたことに気づく)、
……普通の映画なら描くであろう何もかものシーンが欠如している。

しかし、描かれなかったシーンで何が起きていたのかは人々の会話や行動から推測することはできる。
私が()内で示したように。

こうした間接表現を実現する空間の使い方や物語構成にエドワード•ヤン監督の表現者としての腕が光っている。

また、婉曲表現を用いる理由は、芸術的観点だけではなく、目に見えないものも想像せよというメッセージを監督が伝えたいからなのだろう。
端的に監督の思惑が透けて見える台詞が下記だ。

ーーー

ヤンヤン「お父さんが見ているものを僕は見ることはできないし、僕が見ているものをお父さんが見ることはできない。どうしたらお父さんが見ているものを僕は知ることができるの?」
父「いい質問だね。考えたこともなかった。だから、僕たちにはカメラが必要なんだ。カメラで遊んでみる?」
ヤンヤン「真実の半分だけを見ることはできる?」
父「何?どういうこと?」
ヤンヤン「僕は目の前のものしか見えない、後ろにあるものではなく。だから、僕は真実の半分だけ見える。そうでしょ?」
※拙訳

ーーー

この後、父は話題転換を図るが、まさに真理を突かれたために父は返す言葉がなかったのだろう。
人々は目の前にあるものだけを見て、判断する。
しかし、目の前に現れるものはあくまでも表層でしかなく、表層を支える深層がある。
深層/真相を知ると相手の事情を考慮する必要が出てきて動けなくなるから、目の前にあるものだけを真実のすべてとして人は扱う。
それに対しヤンヤンは疑問を呈したのだ。

私はこのヤンヤンの台詞を聞いた時に大号泣した。
もし自分に子どもがいて、こういうことを考えられる子だと知った暁には、この世界で生きるのがいかに苦しいだろうかと想像してしまった。

世界は優しくない。
しかし、それもあくまで一面的。
世界は多面的であり、複層的なのだと想像する力が我々には求められている。

そんなことに気づかせてくれる映画だ。

P.S. 映画の原題「一一」は秀逸。
縦書きにすることで、「一」が2つ並んでいるようにも見えるし、「二」のようにも見える。
騙し絵ではないけれど、二重の意味を監督は持たせたかったのだろうし、もっといえば「一」と「一」の間にも注目させたかったのかもしれない。
……日本語版も原題のままにすれば良かったのに。
漢字圏なんだから。
りふぃ

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