寝耳に猫800

ヤンヤン 夏の想い出の寝耳に猫800のレビュー・感想・評価

ヤンヤン 夏の想い出(2000年製作の映画)
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@早稲田松竹(満席)

何かを聞いている/見ている人をまなざす映画、恋愛時代もそうだし、エドワード・ヤンは丁々発止の会話劇に目が(耳が)いきがちだが、思いのほか、話している人よりも、話を聞いている人の表情や姿を捉えている、話している人と同じくらいかそれ以上に、それを聞いている人の姿をカメラにおさめることに重きを置いているように感じた

だからこそ、この映画で意識不明の祖母が登場し、医者から彼女に頻繁に話しかけるよう促されることは重要に思える、なぜなら彼女は目の前で話をする人に対して何も反応していない(ように見える)から、今まで結婚式で馬鹿騒ぎをしていた人も、痴話喧嘩をしていた人も、その祖母の前では言葉を失い、沈黙してしまう
これを観ていた自分は、この映画の雄弁さを支えていたのは、実は聞いていた人の顔と姿なのだと感知した

加えて、起きていることや人物に入り込んだ撮り方をせず、常に一歩引いた場所にカメラがある、この辺りがこの監督の距離感なんだと思う、喧嘩をしているカップルをロングショットでおさめたり、壁越しに音だけを聞かせることで、観ているこちらも「聞いている/観ている」意識が立ち上がり、しかも何かを聞いている/見ている人が多く出てくるので、「聞いている人を観ている」みたいな二重の意識が自分の中に強く芽生えていたように思う、なのにわざとらしく感じないのはなぜなのか
(被写体への距離を感じる理由として、ガラス/鏡に反射させて人を写したり、逆光に照らされた人間のシルエットを多用したりすることも寄与しているように感じた、正面から人を映すよりも距離が出る)

考えてみれば、大人のあれこれを身近で見聞きしているのはいつも子供なので、何か聞いている人を撮りたいなら、子供のヤンヤンが主役/タイトルになることも納得かもしれない、しかし彼もただ聞く客体としてだけ存在しているわけではなく、「お互いに何が見えているかわからないとしたら、どうやってそれを教え合うの?」と問いかけてきたり、周囲の人の後ろ姿(自分では見えない、ヤンヤンから見えた姿)を写真に収めたりする、その言動/行動は映画全体とも響き合っている

追伸:それにしてもエドワード・ヤンはエレベーターホールと長い廊下が好きだな、そういえばどちらの場所も公私の間に存在する共有スペースで、何かを聞いてしまう/見てしまう場所として都合がいい