イホウジン

ヤンヤン 夏の想い出のイホウジンのレビュー・感想・評価

ヤンヤン 夏の想い出(2000年製作の映画)
4.1
不幸もまた人生のスパイス

それなりの社会的地位がある人達が受け得るであろう不幸という不幸を、これでもかと詰め込んだ映画だ。登場人物達にはトラブルが常に降りかかり、残念ながらそれらが(劇的な)解決をすることもない。ただ他の誰かには平凡である毎日が、淡々と過ぎていくだけだ。これには当然虚無感が付きまとい、それは時として退廃的な行動として実生活に現れることがある。終盤に姉の元カレが引き起こす行動は今作におけるその典型例だろう。しかし、それ以外の登場人物は最後まで具体的な“解決”に向けた行動を起こさない。それは、皆が人生の中の苦しい部分をどこかで受け入れたからである。
今作の哲学的な部分を支えるのは、イッセー尾形演じる「大田」だ。誰もが目先の利益のために生き急ぐ現代社会の中で、主人公の父と大田は人生そのものの豊かさを希求する。大田はバーで「上を向いて歩こう」と「ピアノソナタ月光」を続けて演奏するが、対極的な2曲が同じ“音楽”という枠組みでくくれるという事実は、いささか暗示的だ。彼らは、悩みや苦しみをも包摂した「生」そのものの尊さを求め続け、その中で主人公の父は過去の痛みと向き合うことになる。そして、その古傷に対する諦めがついたその先で、ある種の悟りのような境地に至るのである。このことは他の登場人物についても同様だ。どの登場人物も、劇中に発生する何かしらのトラブルを経て、永遠の幸福の中の人生など不可能であることと、それでも自分の生そのものが美しいものであるということを受け入れる。物心ついて間もない主人公の場合は、そんな彼らを“観察”することで「人生とは何か」という観念的な問いに向き合うことになるのである。
主人公ヤンヤンは、他の登場人物に比べ発言も少ないしそもそも登場頻度すらも低いのだが、それでも彼が主人公足り得るのは、彼の言動が今作の核心を突くものであるからだ。個人的には、「自分の後ろ姿は自力では見れない」という言葉が印象に残る。今作の主人公は、誰もが自分以外の他者と向き合う中で己の弱さや美しさを見出していく。そしてこのことは、まさにヤン監督の映画の精神にも通ずるものがある。“内なる自分”を見つけることの大切さということが、今作のテーマの一つなのかもしれない。
また、主人公の父の日本編は、どこか小津安二郎の『東京物語』を連想させられる。まず東京と熱海という舞台設定自体がまんま小津のそれだし、“故郷”という視点で見れば尾道も台湾もそう大差ない。また、熱海編を通して物語が終結に向けて動き出すという点も共通している。どちらも非常に内省的なストーリーの映画であり、だとすると今作は小津へのリスペクトという文脈も少なからずあるのだろう。
映像もとても良い。これは監督の他作についても言えることだが、大衆文化の中に在る個人を描く様が深く印象に残る。今作で言えば、マクドナルドや映画館,新宿駅の場面なんかはそれを代表しているように思える。陰影の使い方もピカイチで、特に熱海のホテルや海岸の映像はもはや絵画である。

出来事があまりにも淡々と進むので、どこを注視して鑑賞すればいいのかが分かりづらかった。群像劇の宿命とも言えるのかもしれないが、浅く広くを重視したために個々人にフォーカスされた深みが少し弱かったように感じる。
あとセリフが所々登場人物の本来のキャラクターから乖離して、どこか啓蒙的になってるのも少し気になった。どの言葉も美しいのだが、どこかストーリーとのズレを感じてしまう。
イホウジン

イホウジン