レインウォッチャー

台風クラブのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

台風クラブ(1985年製作の映画)
3.5
" あーあ、台風来ないかなあ。"
理恵(工藤夕貴)はこんなことを言うけれど、思えば同じ歳の頃はわたしもずっとそう思って過ごしていた気がする。
子供の体感時間は長い。ずるずると続く日常を吹っ飛ばし、目先の嫌なコト・モノ・ヒトを押し流してリセットしてくれる「何か」を、漠然と待っている。

台風がやってきて去っていくまでの三、四日の出来事を、中学三年生の子供たちの視点で群像劇的に描く。
彼らの振る舞いは、リアル…という風にも思えないのだけれど、それを越えたリアリティのようなものがあって、不思議な後味だ。たぶん、心象をそのまま取り出して可視化することに成功しているのだと思う。

天気が悪い日の校舎のあの暗さ、ありありと思い出せる。子供の体臭や砂埃のにおいを湿り気が閉じ込めて、電灯が届かない階段の裏とか廊下の奥は深く冷たい闇になる。
明るいあいだは意識されなかったそのよそよそしさが不気味で、ああ本当は誰も自分のことなんて気にしてくれていないんだと、いっちょ前の孤独を発見してみたりするのだ。だからだろうか、ここで暴走する男子の行動を説明的に理解することはできなくとも、感情をトレースすることはできる。

何よりオープニングが抜群に良い映画だ。夜のプールに忍び込んで、当時のディスコを模してはしゃぎ踊る(曲はBARBEE BOYS!)女子たち、それを水面に分断されたクラゲのように見ている男子。
若さ、愚かさ、暑さ、不穏。この映画のあらゆる要素がすべて予告されている。停止した黒い水面はまさに嵐の前の静けさ。その下には彼らの形にならない未処理のリビドーが埋められていて、行き場を求めている。

観ていると、大人たちの影がほとんど感じられないことに気付く。台風下の学校に閉じ込められた面々のことも、東京にふらっと家出した理恵のことも、誰か親などが心配している描写は一切挟まれない。直近だと北欧の『イノセント』のように、子供に閉じた世界。
唯一関わるのは担任の数学教師(三浦友和)だけれど、彼は徹底して無責任な男のように描かれる。その無責任さは、冷淡というよりどちらかといえば「諦め」だ。

しかし、映画のトリガーとなるのはその教師である。一見、台風がきっかけに思えるけれど、実はその前に教師が教室で起こしたプライベートのトラブルが決定的であることがわかる。
あのプチ騒動によって、学級の中に目を背けようのない「性」が持ち込まれたように思う。エントロピー増大の法則よろしく、これによって被膜に穴が開き、無秩序状態へと広がっていくのだ。

無秩序は生の発散であり、自発的には収拾できない。自ずと、死が待たれる。台風の終わり、小さな青春の終わり、教師の諦め。
教師と恋人の大人らしい習慣を感じさせる色めいた仕草より、少女が無防備に机に身を投げ出したときのスカートの裾のほうによっぽどエロスを感じてしまうのは、そこにこそ孵化する前の未知の生を感じるからだろう。