河

ピカデリィの河のレビュー・感想・評価

ピカデリィ(1929年製作の映画)
4.2
カメラ移動や人物の移動によって作り出される運動によってリズムが作り出され、その運動がバトンパスされるようにショットが繋がれる。そのため、場面が変わってもショット間に断絶が生まれず、ひたすら流れるように映像が過ぎていく。

特にオープニング、ショーの幕開けから演者と共に回転するカメラ、ピカデリィの表舞台であるレストランからその裏側であるキッチン、さらにその奥にある皿洗い場に向かい、そこで中国系の女性が踊っていることを発見するというシークエンスが本当に良い。

ピカデリィの表舞台であるレストランと舞台、そして裏であるキッチンの間には階層的な断絶がある。皿洗い場はさらにその下の階層として置かれていて、キッチンと違いそこで働くのはほとんどが女性となっている。オーナーはそこで中国系のショーショーを発見し、ショーの顔として表舞台へと連れ出していく。

そして、その表舞台へと連れ出したことが、表舞台にいた女の嫉妬を生むと同時に、ショーショーが表舞台の人として振る舞うことで裏側の存在としての中国系の男からの嫉妬を生むようにもなる。女は表舞台から追い出そうとし、男は裏側である自分の隣へと引き戻そうとする。

ピカデリィにおける白人以外への偏見も描かれている。この映画の中に映像の流れが決定的に止まる瞬間があり、それは黒人男性が白人女性と踊っているのを見つけた男がそれを暴力的に禁止するシーンとなっている。

ピカデリィはショーショーを拒絶する。そしてそれによってショーショーは殺される。その事件はピカデリィの観客達に注目されるが、その解決と同時に誰もがショーショーのことを忘却し次の新しいショーがまた開かれる。そのラストがこの映画の流れるような映像展開によって映される。映画を通して続くリズムの途切れない映像展開はピカデリィの享楽的な感覚を象徴していると同時に、忘却的な感覚、スピード感をも象徴していることが示される。基調となる運動は回転であり、それもピカデリィでの踊りを象徴するとともに、その永遠に忘却し繰り返し続けるような性質を表しているように思う。

サイレント映画の持つ音楽的な映像展開という良さが非常に活かされた映画だと思う。その極地として幕の合間を除いてインタータイトルが全く入らないムルナウの『最後の人』があり、この映画はその系譜にあるんだと思う。インタータイトルは結構頻繁に入るけど心地よさが削がれないからそこも計算してるんだろうと思う。人物が話す前に入ってきたり後に入ってきたり、2人分表示されたりインタータイトルの表示されるタイミングがバラバラなのはそれが理由なんだろうと感じる。
『最後の人』が映像だけで語り切るためにトリッキーな方法を複数持ち込んでいたのに対して、この映画はクライマックスに一瞬ドイツ表現主義的な演出があるのみで、ほとんどその運動の連続のみで組み立てられている。

トーキー移行時の作品で、トーキーのプロローグは後から付け足されたものらしい。また、監督のE・A・デュポンは他のドイツの監督同様渡米してハリウッドで撮った映画が興行的に失敗していて、この映画がイギリスで撮られているのはそれが理由らしい。
さらに、主役のアンナ・メイ・ウォンは最初の中国系アメリカ人のハリウッドスターで、ハリウッドではステレオタイプな中国系の役柄、更に脇役しか与えられないなど、差別的な役柄の振られ方をされていたらしい。それが原因でハリウッドからヨーロッパに移住して作られたのがこの映画であり、さらにアメリカでは白人と白人以外の結婚は禁止されていたらしい。そういう背景を考えれば、この映画のオーナーが中国系のショーショーを主役として引っ張り出すもオーナーとショーショーの関係性は実現せず舞台からも殺される、そしてオーナーはピカデリィから去るという展開は監督とアンナ・メイ・ウォンの置かれていた状況を反映したもののように感じる。

追記: エルンスト・ルビッチの映画を見て、当時のドイツにはドイツ表現主義映画の流れと並行に、スラップスティックの流れを汲んだ音楽的な映像のリズム、語り口を目指した流れもあったことを知った。ムルナウの『最後の人』もこの映画もその流れにある映画なんだろうと思う。また、ソ連映画はその流れから出発したんだろうと思う。
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