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カルメン純情すのotomisanのレビュー・感想・評価

カルメン純情す(1952年製作の映画)
4.2
 一年前意気揚々と里帰りしたおきんちゃん、もといカルメンであったが、その芸術家魂は相棒、朱実の女剣劇への転向により大いに揺らぎ、今またカルメン自身、フランス帰りの前衛芸術家に秘めた恋を寄せるに至って更なる失速をきたす。

 講和だよ、独立ニッポンだってぇのにさえないね、白黒でいいんじゃない?カメラも傾いちゃうのでいいんじゃない?というわけで、さえないカルメンには精彩などお呼びでない。
 男なんぞに養われて堪っか、という心意気がストリップを芸術に持ち上げるはずが、朱実も共産主義者に惚れた弱みで党のアジ演説付きドサ廻りについていっちまって、戻ってきたと思えば芯まで抜けて挙句乳飲み子うららちゃんのこぶ付きだ。
 さあ食うに困って、赤子に泣かれて弱って子捨てに向かった先、ネオンも煌々アトリエ・スドーでスドー画伯に出会った事がカルメンの運の尽き。そういえば道すがら、国会議事堂も停電中か?廃墟のごとく。それとも講和が成ろうと独立しようと審議する事が不足で国会も失業中なのか?

 議案が足りなきゃ再軍備、精神再注入で繁盛させてやろうと「日本精神党」が髯女、熊子を擁して立党する。選挙も間近、後顧の憂いたる熊女の娘、千鳥を片付けちまおうとスドー画伯にせっつけば画伯は女出入りの数多あって純情無垢のカルメンも取り違えられて誰が誰やら。
 そんな恋に揺れるこころが芸術魂を崩し、カルメンの女一匹一本立ちの根性まで骨抜きだ。「女は弱し」というヤツだろうが、それなら、朱実の「母は強」いのか?要は靴下ほどには強くないという事だろうが、いっそ風に吹かれて浮かれて暮らそうという千鳥お嬢さんの方が上昇気流の風任せを巧みに使ってよっぽどいい羽振りだろう。
 そんな中、唯一熊女だけがどんなホルモンの異常か知れないが意気軒昂だ。裏を返せば娘の仕儀は婚約者スドー画伯と好一対の惨憺たるもので、街頭演説会で熊女のこんなスキャンダル事情をヤジる男を朱実の元連れ合いと知ったカルメンが蹴散らすのをこれ幸い、先日百円渡して手切れにしたのも忘れちまったように、新時代の英雄女性としてこいつを持ちゃげなくっちゃと思ったろう。
 まさか演壇でスドーさんを応援しようとは思わなかったろうが、いつの時代も「ニュース」は後から作られる。この作られた事実の上にカルメンも生き直しの機会を得るのか?

 さあ、この時からのち、カルメンは何処へ?政治力、金権力で現実すら歪める熊女に触れて頭の醒めたおきんちゃんがかの名を捨てるのか、それとも、むかしむかし牛に蹴飛ばされた効果は虚飾まみれなスドー効果に勝り、新時代こそ脱いで踊っての新カルメンに開眼するのか。その中間の人生各種いろいろは、おきんちゃん=カルメン・スペクトラム、死ぬほど想像引く手数多、第三部の筋書きを選び取れない有様だろう。

 そういえば、原爆に人生を狂わされたあのおばさんもスドー家から解放されて人生を我が身に取り戻した、ということだろうか?
 野天に晒されて始めた靴磨きの街頭はクルマに人混みの騒音だらけ。それがみんな韓半島の、内灘の射爆音に聞こえるという、いつか向かった道への逆戻りがこころに去来する中、スドー邸で見た事の何一つ真実を知らずに「カルメン」の名も、その人の如何も知らずに、すべてピカを頂点の狂気の沙汰の一コマとして記憶の隅に押しのけてしまうのだろう。
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