Manabu

東京日和のManabuのネタバレレビュー・内容・結末

東京日和(1997年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

「追憶」

今はもう懐かしい記憶が、そよぐ風になびく旗のように遠くで揺れ、追えば追うほど掴もうとする掌からするりと落ちてしまう。掬い取ろうとうつむいた後、ふと見上げれば、眩い陽の光の中に白い影のようなものだけが、ただ在るだけだった。

初恋の相手を写真に撮影した日の事を今でも鮮明に憶えている。もう会えなくなるだろうと直感で判った為に会いに行ったのだと記憶している。一枚だけ撮った写真の中のその人は、やや緊張気味の面持ちで少し笑みを浮かべ、こちらを向いて静かに佇んでいる。使い捨てカメラであった事と、それまで写真を撮るという行為に慣れていなかった所為か手元から被写体との距離は不自然に距離がぽかんと空いており、その空間が当時の二人の関係と、その後を表しているのだと思うと非常に感慨深い。

もう何年も前にその写真を紛失してしまったのだが撮影時の風の吹き方や場所、気温などは不思議と憶えている。その代わりに話し方や仕草、どんなものが好きだったのかなど、その相手の性格に関わる事柄を思い出せないでいる。写真を撮ってから後、初恋の相手より写真の彼女を多く見てきた為だろうか、もしかしたら写真に写るその人を想っていたというよりも、写真に焼き付けられた像に想いを馳せてきただけなのかもしれない。

しかし、初恋はいつだったのだろうかと考え思い出そうとすればするほど、より不明瞭な感覚に陥ってしまう部分がある。あの時、写真を撮ってしまったからこそ私の記憶は曖昧になってしまったのではないだろうか。当時の記憶が一枚の写真によって、かき消されてしまったのではないだろうか、と。多くの年月が経ってしまったという事もあるだろう。記憶はまるでピントの合わなかった人物写真のように全体がぼやけ時間と共に朧げになり消えてしまったのだ。ただ明確に分かる事は、その相手が確かに存在したのだという事を、この先も決して忘れないであろうという事だ。だが実際には、それすらも分からなくなっている。何しろ、もう今では手元にその相手に関する物が一切無いのだから。ともすると彼女の存在自体が元々、写真の中にしか存在しなかったのではないかとさえ思えてしまう。しかしあの時、写真を撮っていなかったとしたら、それはまた違ったのかもしれない。


冒頭のショット、晴れた日のベランダ、誰も居ない白色の丸テーブル、モノクロームの画面の中に女の遺影が映し出される。灰皿に置かれた煙草の煙がまるで線香のようにゆっくりと燻る。やがて弦楽曲が流れ葬送曲のように厳かに流れる。まるで弔いの順番が決まっているかのように淡々と。こうして始まる映画『東京日和』は遺影に映っていた女への別れの映画であろうことが推察される。

その女とは写真家・荒木経惟氏の妻・陽子(中山美穂)の事である。映画『東京日和』は亡き妻との思い出を回想する荒木氏を演じる竹中直人の語りによって進められてゆく。映画は荒木氏の作品『センチメンタルな旅』そして本作と同じタイトルである写真集『東京日和』を元に制作された。監督兼主役を務める事となる竹中が、書店で偶然にそれらの写真集を見つけ、強い感銘を受けたことから物語を着想したのである。写真集には妻との新婚旅行、日々の生活のスナップ、愛猫のチロ、妻の葬儀、そしてその後、一人残されて生活することになったマンションの空虚な風景などが収録されている。写真集を見てみると、その画面の中からはどこかしら「死」を連想させられてしまう。それは劇中の陽子を見ていても感じられる事でもあった。陽子にはどうしても生きているという人間味が希薄な部分が見受けられてしまうのだが、それは表情一つ変えずに淡々と語る口調などからも推察できる。竹中監督は何故、荒木経惟の妻・陽子をこのような人物として描いたのだろうか。

映画の中盤、陽子が「見ないでほしいの、私のこと…」とつぶやき、それに対し同意する夫(竹中直人)のシーンがあるのだが、その部分を見るとその理由が分かってくる。写真家にとって「見ないでほしい」と言われることは致命的である。写真を撮るとは見る事を意味しているのだから「写真を撮るな」と言われているのと殆ど同じなのである。妻は夫の一番得意な事=写真を撮る行為を禁じた上で自分を愛してほしいと伝えたのだ。また、映画の終盤、旅行先で乗った小舟の上でうたた寝をしている陽子を捉えたショットがあるのだが、その時カメラは陽子が死に往く際を見とるかのように見つめている。(荒木氏の写真集『センチメンタルな旅』に収録されている棺に入れられてしまった故・陽子の写真を連想させられる)


一枚の写真が存在する事で人物や物事の印象を強く決定付けてしまう事がある。それが在る為に事物の本質よりも違った先入観を見た者に持たれてしまうのだ。画面に写っている表面上の事象を見て判断される為〝写真そのもの〟が真実と解釈されかねない。それは時間が経過すると更に説得力を持ってしまう。写真は或る時間を瞬間にフィルムへと保存してしまう機能がある一方、被写体の死=非時間性を持ってしまう。初めて恋をした相手への感情がどんなに強く忘れられない思い出だったとしても時間の経過と共に具体的なディテールを忘れ、写真に写っている事象だけが印象として残ってしまうように。写真の中では全ての時間が止まっているのだ。

映画のラストシーン「私の写真人生は、陽子との出会いによって始まった」と荒木役の竹中直人が回想する場面があるのだが夫と妻との関係はそこで終わってしまったのではないだろうかと私には感じられた。妻の台詞「見ないで欲しいの、私のこと…」に表されていたように写真に撮られてしまうであろう「私」よりも「その瞬間に生きている私」を捉えてほしいと願っていたのだから。このシーンを見る度、妻の写真を一途に撮ってきた荒木氏が、哀しいことに撮れば撮るほど妻との距離が実は遠のいてしまっていたのではないかという気がしてならないのだ。

荒木経惟氏の写真集を見ていると氏は被写体に対し常に初めて恋をしていたかのように接していたのではないかと思うくらいの熱量をいつも感じる。全ての事物は死を前提として、今、ここに生きているのだ、という生命力に満ち溢れている。荒木氏は又、妻・陽子をモデルとして実に膨大な写真を撮影している点が印象深い。強く想いを寄せる相手であっても、それが例え写真家の妻であったとしても、これほどの数の写真は撮らないのではなかろうかとさえ思ってしまう。それはもしかしたら「いつしか妻を失ってしまうかもしれない」という恐れであったのだろうか。(花は散る事が予め分かっているからこそ撮影される)

初恋とは記憶の断片である。思い出は月日が経つにつれ薄れゆく。もう今となっては初恋の人、その存在だけが嘗て存在していたのだ、という記憶しか残らなくなってしまうように、それは揺らいでいる陽炎のごとくゆらゆら浮かび消えてゆく。
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