カラン

銀河のカランのレビュー・感想・評価

銀河(1969年製作の映画)
5.0

☆聖地を巡るおもしろ宗教批判

パリ、トゥール、ボルドー、バイヨンヌ、そして国境を越えて、スペインを横断してポルトガルの近く、遥か北東のサンチャゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼の旅路。サンチャゴというのはフランス語ではサンジャックとなり、日本語では聖ヤコブとされるが、サンチャゴ・デ・コンポステーラがなぜ聖地とされるのかを、冒頭のナレーションは中世的な地図を映しながら説明する。この説明を映画ラストの聖・売春婦が反復するので、しっかり字幕を追ったほうがよい。

とにかく、太古には星々が聖なるものを示したという。星が流れる方向に聖ヤコブの遺体があるから、巡礼者たちは星の流れる銀河に沿って永遠的に行脚したという。何千万人もの人々がこのサンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路をこれまで歩んだことになることをナレーションは確認する。聖遺物は本当は存在しないという不敬な指摘とともに。

それで、このナレーションからジャンプカット的にオープニングクレジットが始まり、無数の車がかなりの速度で走る暴力的で殺風景な道路を映す。これがブニュエル的な星が流れる道、銀河である。この無数に車が流れる巡礼路に、浮浪者の2人が現れて、映画が始動する。当然、浮浪の巡礼者がヒッチハイクしようと手を挙げても車は止まりようがない。ふと穏やかな道にさしかかると、公爵のような格好の男が前から。巡礼者の2人は金をせびると、逆に金を持っているか訊かれて、小銭を持っていると答えた男が高額紙幣を受け取る。唖然としていると男が戻ってきて、その金で聖地に着いたら女を買ってはらませろと。そして不吉な名を付けろと。立ち去った公爵を振り返ると、ダウン症児のような体躯の子供を脇に従え、子供は鳩を出す。

さらに、ブニュエル&カリエールは超越を加速させ、建具屋の家の中に飛ぶと、偽・処女マリアとその亭主の偽・ヨセフと髭を剃ろうとしている偽・イエスの時代にジャンプする。マリアは処女であるので、聖霊によってイエスを妊娠した。しかるにイエスに兄弟姉妹はいない。霊的な妊娠を除けば処女だから。しかしこの映画の偽・聖家族には他に子供がいる。この子の顔が汚れているのを手拭いで偽・マリアがふいてやり、外に出かけると、巡礼の浮浪者の2人がぶつぶつ言いながら歩む道路で出逢う!着ていた服が現代の衣服に変わっているが、聖痕から血が出ている。

これが冒頭の15分ほどのあらすじ。なんだ、この苛烈さは。なんだ、この時間感覚は。

この後、映画は聖地巡礼をする浮浪者2人の歩むカトリックの聖なる道に異端のジャンプカットを導入し続ける。そして奇跡が起こる/起こらない。いや、既にこの映画の存在自体が奇跡だろう。ジャンプカットでストーリーを紡ぐなんて!なにしろジャンプというのはストーリーの切断じゃないか!それで、夥しい数の超越が全て独特であり、固有の強度を失わないというのならば、映画史の奇跡とするべきだろう。


☆道

ピエール・エテックスの『大恋愛』(1969)を観た時、道路をベットで長々と走る幻想が始まるのだが、ゴダールの『ウイークエンド』(1967)のような悪夢的な道路だなと思ったものだったが、その『大恋愛』の脚本家がジャン=クロード・カリエールであり、本作『銀河』(1969)をブニュエルと共に書いたのであった。繋がらないものに繋がりを見つけていく不思議な本作を観ていて、改めて、時代精神の進む不思議な道なき道としての銀河が形成されていく過程を感じた。単に、カリエールが多作な脚本家だからというのに過ぎないかもしれないが。


☆官能的な色彩

カラー映画である。茂みの描写の多様さは特筆に値する。この映画で茂みは異端の乱行が行われ、マグダラのマリア(デルフィーヌ・セイリグ)が浮浪者から金をせびって売春を行う領域であり、さらにイエス・キリストと使徒たちが、盲者の目を開かせ、かつ、盲目にする奇跡の場所である。緑が非常に濃い。三位一体を批判して追いかけられた2人が森を彷徨っていると、川遊びをしている男2人の服が枝にかかっており、それを奪うのはキューブリックの『バリー・リンドン』(1976)に繋がる道であろうか。この時には紅葉が黄金の照り映えとなる。
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