アルビノのたぬき

シークレット・サンシャインのアルビノのたぬきのレビュー・感想・評価

5.0
2年ほど前初めてこの映画を観た時、私はシネが自分に嘘をついているのだとばかり思っていた。
あまりに耐え難い絶望に立たされた時、現実から目を逸らし、この苦しみをやり過ごすことでしか救われないことを悟ったシネは、限界を超えた苦しみの渦中で信仰という狂気に身を委ねることを自ら選び取ったのだ、と。結局心底では神を信じきれていなかったために憎しみが生まれたのであって、彼女の信仰が仮に本物であったなら、何があってもその信仰心は揺らぐはずがないじゃないか、と。信仰という営みへの侮蔑的な眼差しと共に、浅はかにも私はそのようなことを思った。
では”本当”の信仰とは、果たして一体どんなものだろう。その正統性は何によって規定されるべきなのだろう。

今回改めてチョンドヨンの慟哭を目の当たりにした時、そこにはまさに”本当”の信仰が映されていた。何を規定するまでもなく、シネは一度、確かに信仰へジャンプしたのだと素直に確信できた。
彼女の神への熱狂はまやかしのそれではなく、束の間シネは、確かに神という全体性に支えられながら、神への愛を、神からの愛を実感し、それに生かされていたのだった。
だからこそ、自分に与えられたこの愛が、平安が、赦しが、誰の下にも等しくもたらされていることが耐えられない。
神の御心によって抱き止められた獄中の男。息子を殺した男。
シネを再び襲った絶望は、猿真似の、嘘っぱちの信仰から”目醒めた”ことによってもたらされたものではない。彼女と神との間で交わされた愛が本物でなかったとしたら、彼女の激情があれほどまでの憎しみに反転することはなかっただろう。本当に愛していたからこそ、神の裏切りはシネにとってどうしようもなく耐え難く、許し難いものであったはずだ。

見えないものを信じることは「信仰」だが、見えないものと闘うことは「狂気」になる。(『イ・チャンドン アイロニーの芸術』)

信じること。赦すこと。その内に潜む暴力と欺瞞。
あいつを赦せるのは私しかいない。あいつを赦す権利は神にだってない。シネは、神への復讐に燃える。

この悲劇的な物語において私たちの心を慰めるのは、狂気に飲み込まれながら神と闘うシネを現世と繋ぎ止める唯一の存在として描写されるジョンチャンの、喜びとユーモアの造形。無垢の俗物性。そして最後に鏡に向き合うシネの頭上に、やわらかな陽の光があたえられているということ。この物語が、希望の予感によって幕を閉じるということ。
終始徹底したリアリティに貫かれながらも、しかし世界と、そこに生きる人間の俗物性を愛しむイチャンドンの眼差しには、一欠片のペシミズムも存在する余地はない。
イチャンドンの、この途方もないやさしさ。そこにこそ私は彼の作家性を、類まれなる唯一性を見出さずにいられない。