デニロ

モスラのデニロのレビュー・感想・評価

モスラ(1961年製作の映画)
3.0
1961年製作公開。原作中村真一郎、福永武彦、堀田善衛。脚色関沢新一。特技監督円谷英二。監督本多猪四郎。

『モスラ』といえばザ・ピーナツの小美人が漏れなくついてくるものだと思っていた。
わたしが初めてモスラと小美人を観たのは封切公開の『モスラ対ゴジラ』で、ザ・ピーナツの「モスラの歌」を聴いて大いに感動したものです。そして『三大怪獣 地球最大の決戦』へと続き小美人の絶対性がわたしの中に確立されていったのでした。

が、1966年の冬休み番組『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』で、小美人役がザ・ピーナツではなくなっていたのです。この出来事は子どもごころを大きく傷つけていたようで、長じて知り合った友人たちもそのことに触れて盛り上がったものでした。その新小美人は何者か。当時は調べることもままならなかったのですが、昨今の電子脳時代における情報の流布で容易に調べることができるようになったのです。新小美人も双子の姉妹でペア・バンビと名乗っていたようです。ポッと出のタレントを使ったのかと思っていたら、更に調べていくと、1960年の週刊明星でザ・ピーナツとの対談記事に行き当たりました。記事の紹介では16歳と記載されていたので、小美人役の頃は22歳。その対談のプロフィールに芸歴はザ・ピーナツよりも古くて、踊って歌える可愛いカップルと記されています。7歳の時タップダンスで浅草花月初舞台だそうで。何でバンビなのかというと、痩せていて耳が大きいからなのだそうで、確かに16歳の彼女たちは瘦せています。

そんな彼女たちに罪はありませんが、わたしは裏切られた思いだったのです。何しろその頃は、若林映子、浜美枝、水野久美等々の東宝美女には全く興味がなかったのですから。

さて、インファント島のモスラ。巨大な鳥の卵にしか見えないモスラの卵。卵から殻を割って孵化する様子もまるでラドンの孵化の様。それはともかく、小美人を救うためにモスラは太平洋を一路日本に向かい泳ぐのです。小美人を見世物にする日本にモスラは容赦いたしません。しばらくするとモスラは何故か奥多摩湖から浮かび上がり、その後、ようやく近代化されてきた東京を破壊しつくします。そして出来たばかりの東京タワーを折り曲げてそこで繭となります。モスラが繭となっている間、小美人はロリシカ国ニューカークに連れられ見世物となってしまいます。モスラはもう日本に用はありません。蛹から成虫に羽化し小美人を追いニューカークに飛びます。そしてニューカークを蹂躙いたします。ロリシカ・・・、アメリカ似ていないこともない。何で変名なのでしょうか。

本作を初めて観たのは、1976年日劇・東宝映画傑作選でした。それ以降3回目の鑑賞。いまや配信でも観られるようになってしまい一回性の感動も薄れていくところです。

ラピュタ阿佐ヶ谷 Laputa Asagaya 25th anniversary ニュープリント大作戦!にて
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