メタフィクションの使い方が超絶うまい。
これはヤクザが閑散期に「遊び」まくる話。「遊び」とはフィクションを生きることである。うちなーんちゅのように踊ってみたり、紙を関取のようにしてみたり、そしてそれを更に人間で再現してみたり。
しかし村川があのような形でフィクションを現実化してしまうことが象徴する通り、鉄砲や花火や落とし穴といったフィクションは現実の延長として存在する。
それゆえあの底抜けに軽やかな遊びに死の匂いが漂うのは、彼らがそこで命・人生の軽さを再演しているからである。そして、抗争の外にいる幸も例外なく「生/死」をフィクションしているという事実が映画世界をあの漠とした沖縄の海のように開き、笑って我々に銃口を突きつけるのである。