ハッピー包囲網

ソナチネのハッピー包囲網のレビュー・感想・評価

ソナチネ(1993年製作の映画)
5.0
つくづく哲学な映画だと思う。

あえて、生(せい)を希求する映画 と言い切ってみたい…!!!
人間賛歌な映画だと、個人的には信じている。

まず、東京時代の村川について、考えてみる。
掛け合い「でも死ぬの怖くないでしょ?」「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」ということは、東京時代の村川は死ぬの怖くないってことなので、死にたくもないし生きたくもない、死んでもないし生きてもない、宙ぶらりんの状態だったってコトだと思う。
具体的には、
基本、村川は生にも死にも、鈍感なんだよね。(クレーン沈めるあたり、沖縄のエレベーター終わりとか、全然興味無さそう笑)
でも、そんな自分と現状には違和感を持っていて、根源的には抜け出したいと思ってる。(ex「ヤクザ辞めてぇなァ」)
そんな中、ふと沖縄に行くことになり、遊びとあの女と戦争を通じて、生と死に対するパワーが上がっていくと。

村川の特性についても、考える。
前提として村川は、例の掛け合いでも明言しているように、生きたいと死にたいが二律背反だと思っている点で、他の俗なキャラクターと決定的に異なっている。みんな、出世やオンナや生きのびることに貪欲である。(村川だけ衣装が白、他の俗なキャラクターは赤か青。)

改めて、村川にとって生と死は二律背反。
生も死も、それこそ振り子の振幅の極として同じ、パワーの絶対値として同じだから、ソコに向かう矢印として、生きたいと死にたいが同時に成り立ってしまう。
(…レベルを落とすと分かりやすい。その後の自動車事故じゃないけど、スリリングで興奮する危険な運転ほど、死が隣り合わせ。真逆でま成立する事柄は身近である。最低なモノこそ最高、犬のパグとかブサイクだからこそ可愛い。。笑 マッサージの痛気持ちイイもそうかも。)

だから村川は、遊びを通じて「楽しい楽しい楽しい!」となれば、同時に「死にたい死にたい死にたい!」と高まる。本人にとっては、同じ感情なのに、行為は真逆になっちゃう笑 マジで二律背反。
例えば、ロシアンルーレットがそう。俗な勝村と寺島(ちなみに青Tと赤アロハ)のドン引きな感じ、村川が違う生体アルゴリズムなのがよく分かる。笑 勝村と寺島のウィリアムテルは、的の空き缶を狙ってる時点で、村川にとってはママゴトなんだよね、ソレだと村川さんは感じないぜ。笑
楽しい!(生きたい!)と死んでもいい!が同時に成り立っちゃうんだよね、俗な一般人からすると意味分からんけど。笑
他には、手持ち花火で戦争してる時に、村川が「楽しい楽しい楽しい!」となると、無邪気に鉄砲を持ち出してバンバン撃つ。
死ぬぐらい楽しそう。笑


では、
生死が二律背反で成立する&生きても死んでもない宙ぶらりんな不感症な村川@東京が、沖縄に来て、なぜどうやって生と死にフルパワーで振れていったか、考える。

理由は3つ、遊びと戦争、あの女が生きるサイドの極として機能したから。

遊びについて。
遊びとは、自由意思の体現であり、人間そのものらしい。
ビートたけしが『人間は良いことも悪いこともできる、つまりは自由』って自ら言ってるのを聞いた事がある。
(倫理の授業で習った)ホイ・ジンガ『人間とは遊ぶ人である』らしい。
そもそも、ビートたけしは人生を通じて「悪ふざけ」こと遊んでいるだけだと思っているハズで、マーケティングやら出世やらシガラミに囚われていない人間だと思う。
(『首』でも信長が「全部遊び」って言ってたし、秀吉は首蹴っ飛ばしてた笑)
なんだけど、悪ふざけという芸を極める『芸能人』は、マーケティングやら出世やらシガラミに囚われることが仕事でもある二律背反な職業でもある。
違和感があったんでしょう、ビートたけしの生理を、北野武が昇華するという、オルターエゴの関係性も、フィルモグラフィの醍醐味ですよね。
戻ると、沖縄での遊びを通じて死んでもいいなと思うぐらい楽しい一方、その対極として沖縄での殺し合いが死を際立たせる。(死んでもいいなと思うぐらい楽しくない)
つまり、生命体として人間として、生死の振り子の振幅がドンドン大きくなっていく。東京では振り子が止まってたけど。

あの女もめちゃくちゃ重要。
あの女は、村川のやってる事が死の象徴なら、生の象徴として機能している。(性ではない。)
お互いに、生として死として、指を指しあってる。具体的には「平気で人を殺せちゃうの凄いね」↔「平気でおっぱい出しちゃうの凄いね」、もはやリスペクトし合っている。笑 だから、男女の関係にはならない。
つまり、あの女の存在によって、より生と死が際立つ。それどころか、あの女によって生サイドに村川が連れて行かれるのと同時に、振り子として、死サイドにもより引っ張られていく。(↔東京時代は死しか無かったので、振り子は止まってた。)
ちなみに、あのおっぱいの森シーン、女も村川も白Tなので、対極だけど同族だと表明している。
…てか、二律背反(オルターエゴとも似てる)は、北野映画のテーマの1つだと思う。死と生、芸人と監督、パルムドール欲しくないけど嬉しい、、ハリウッド映画は撮りたくないけど撮ってみるか、、


まとめると、
死ぬことと生きることは同じだと思ってる村川が、生でも死でも無かった東京時代とは反対に、沖縄での生活(遊び&戦争&女)を通じて、生と死に対するエネルギーが高まっていく。

結末、ああなった。でもなぜ?
生死の振り子が「生きたい!」に振り切れた結果、一周して「死にたい!」にカツンと当たったんだと思う。
曰く「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」
つまり、死ぬのが怖くなったから、死にたくなっちゃって、死んじゃった。逆に言うと、死ぬのが怖くなったのは、生きたいって思ったからじゃないかな。だから、あの女の元へ車を走らせてたんだよね。遊んで生きるのも良いなって思ったんじゃないかね。
ということは、引き金を引く瞬間は、生きることをイチバン強く求めた瞬間だったと信じたい。『生きたい生きたい生きたい!』と思う程に、死にたさが膨らむ。
決して、最初から最後まで死に支配された人じゃなくて、どうでもいいやからの生きたい死にたいフルパワー!!!の極が、あの瞬間だったと思いたい。
だから、村川の最期は、人間としての生が始まった瞬間だったのかもしれない。(思えば、ソレもフィルモグラフィのテーマだよね、『キッズリターン』はラストもそう笑)

結論、ボクにとって『ソナチネ』は人間賛歌の映画。
生きるにせよ死ぬにせよ、選択して実行し切った村川には、畏敬の念を覚える。
思えば、どの北野映画も個人的な見解を言い切っているな〜しかも何億円も使ってコケてでも。笑
憧れざるを得ない…!笑

(……ちなみに、自殺サバイバーの多くが『生き残って良かった』と言ったりする。自分の知ってる人も『死んじゃった人は、自殺に失敗した』って言ってた……)

自省したい。
・鈍感になっていないか?
・突破するに、死ぬほど楽しく遊べているか?
・どっちでもいいけど、どうするか?
・実行し切れたか?



(メモ)
赤と青、生と死のコントラスト
・死んだ寺島からボタボタ赤い血がわざわざ流れたり
・村川、ラストの青い車と、拳銃コメカミドンからの赤い血(▶︎ナポレオンフィッシュと銛、コメカミと流れる血は、そのメタファー)
・殺し屋が青空にぶん投げる赤いハイビスカス
・赤橙のフリスビーと青い海
・高橋も最初に赤いハイビスカスと緑のネクタイ(つまり俗)

(好きなシーン)
・全て
・北野映画では、車が向こうからこちらに、こちらから向こうに行くシーンが多いけど、『ソナチネ』はそんな名シーンが多くて最高。
特に、スナック後の死体を捨てに行くシーンは白眉。真夜中のヘッドランプ二灯だけで向こうからコチラに、明け方の青と赤が混ざり始めた情景バックに、死んだやつと死ななかったやつ(生きてる)がクロスするの心底アーティスティック、なんて絵画的なんだウットリしてしまう。トランク死体シークエンス、『グッドフェローズ』も良いけど『ソナチネ』が世界イチ