近本光司

阿賀に生きるの近本光司のレビュー・感想・評価

阿賀に生きる(1992年製作の映画)
4.0
阿賀の老婆が、家族団欒の居間でひとりだけペヤングソース焼きそばを食べている。フィクションの設定ならば、これはあまりに強すぎるシンボルで、ナラティブの秩序を掻き乱してしまう。しかしわたしたちが生きる現実のリアルさとは、この老婆がペヤングソース焼きそばを食べているという、まさにそのような細部にほかならない。うろ覚えではあるが、『阿賀に生きる』についてそのような内容の評を書いていたのは平田オリザだったと思う。ずっと昔に、このリアリズム演劇を標榜する劇作家によるフィクションの限界の吐露とも取れる評文を読んでから、わたしはこのドキュメンタリーを観たいと願い続けていた。そして今回、ようやくその機会が訪れたのだった。
 劇場に居合わせた観客たちはみなあのペヤングソース焼きそばの異様な存在感に目を惹かれたと思う。それは阿賀に三年も滞在をして本作をつくりあげた製作陣も同様だろう。その事実をまるで意に介していないのは、被写体となった阿賀に生きる家族たちだけではないか。彼女がペヤングソース焼きそばを好んで食べ、そして食べ切れずに残すのは、あの家族にとって何度も繰り返されてきた日常の光景で、いまさら取るに足らない事実のひとつなのだろうと想像をめぐらせてみる。わたしはこの見つめる者と見つめられる者の現実をめぐる認識の落差こそが、ドキュメンタリーの本質そのものなのだと、あらためて思い知らされることになった。ドキュメンタリーはその落差を肯定することも、隠蔽することも、いずれも可能なのだ。
 この映画がつくられた1990年代当時、阿賀は新潟水俣病の未認定患者がもっとも多い地域だったという。原告たちが地裁で訴えを続ける姿に、さまざまなTVクルーがカメラを向けているさまも描かれる。しかし彼ら彼女が、地裁に向かうまでのバスで、にこやかに談笑に耽り、和気藹々としている様子は、TVクルーは知るべくもないし、仮に知ったところで、「不憫な被害者像」に抵触する現実の映像は、報道では排除されていたことは想像に難くない。後遺症で左手が変形していることや、左脚の感覚麻痺で火傷に気づかなかったことも、彼らの現実を織りなすひとつであることは確かだが、それは彼らにとって、ペヤングソース焼きそばと同等の現実のひとつでしかない。そういうと語弊があるかもしれないが、このドキュメンタリーのもつ不可思議なリズムから、わたしはそのようなメッセージを受け取った。700年前に開かれた田圃を守り続ける老夫婦。弟子を取らずに阿賀野川に浮かぶほとんどの舟をつくってきた男性。娘と3人で餅屋家業を営んできた家族。アウグスト・ザンダーの『20世紀の人間たち』という写真集の被写体同様、だれしもが自分の現実をそのまま等身大で生きている。彼ら彼女らの表情や、喋りかたや、所作のひとつひとつに感動を覚えるのは、わたしたちがそうした現実の強度に打たれてしまうからだ。