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シテール島への船出のysmのレビュー・感想・評価

シテール島への船出(1983年製作の映画)
5.0
3回目

アンゲロプロスの映画をかなり見た感じ、彼の長回しとはつまるところ、同一画面における重心点の焦点化と脱焦点化といってもいいんじゃないかと思った。全身の筋肉のあちこちに力を入れたり抜いたりして身体のバランスをとることに近い。

ある人物の登場でそこに画面の重心点が集中すると、それ以外の要素は瞬時に背景化し、ある一点だけに重力が加わった画面が作られる。だが、その重心点は異なる無数の要素の登場と共にこちらも瞬時に背景化するというように連鎖反応を起こす。つまり重心点の焦点化と脱焦点化は同時的である。アンゲロプロスの映画でよくあるのが、視点ショットなのかと思いきやそのカメラの背後から複数の人物が背面を見せてインしてくるという画面。こうした画面は、ある一定の持続内で映像の重心点をある点から他の点へと移すことで、同一画面の認識論的な質を瞬時に変容させる。同じ映像が全く別の映像に成る。アンゲロプロスの長回しがある時間の持続に別の時間をシームレスに繋げることが出来るのは、たぶんこの同一画面の質を瞬間的に変容させる重心点の配置の仕方が大きく関わっている。筋肉の緊張によって同じ身体が座ったり立ったりしてその質を変える様に、同じ画面もまた緊張したりそれを解いたりすることで質を決定的に変える。

とても恣意的な比較になるけど、フィクションの中にフィクションを配置して虚構の「内側への構造化」を促すのが濱口竜介だとすると、虚構の外部を見せて今見ているフィクションが実は初めから内側にあったことを次々に明かしていく「外側への構造化」がアンゲロプロス的な異化効果なんだろうと思った。虚構内虚構の連鎖では観客の「信頼」は見る者各々が行う外在的な行為になってしまうが、虚構外虚構の連鎖において「信頼」は見る行為に内在的になものとして初めからある。別の時間への生成を持続的に作り上げるアンゲロプロスの長回しにいつも驚いてしまうのは、今まで信頼していた時間がそれを包含する別の時間の内部でしかなかったことが明かされることで、その内在的な信頼が必ず裏切られる運命にあるからだろう。こんな言葉が正しいか分からないけど、アンゲロプロスの映画は「入れ子構造」ではなく「出し子構造」なんだと思う。
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