Automne

オリーブの林をぬけてのAutomneのレビュー・感想・評価

オリーブの林をぬけて(1994年製作の映画)
4.8
ジグザグ道三部作の最終作。
『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』と共通したジグザグ道の要素、オリーブの林、イランの日常風景、映画の流れる空気や鶏の声、子どもの声、風の音、樹々のざわめき、それらすべてがひとつの世界観として調和した美しさを感じさせる。

ホセインとタヘレの恋愛模様を主軸として、キアロスタミ(役)が映画撮影をすること、地震から復興をはじめた街の模様が描かれる。

ホセインに関して、他のレビューを見ていると、タヘレ目線の立場が多く、しつこくてストーキング気質なところが不評を買っているようであった(たしかに気持ち悪い男はモテない)が、ホセイン目線で物語を見てみると意外とそんなこともなかったりする。

撮影中にホセインがタヘレに「ページをめくる」ことで想いに応えてほしいと伝えたとき、彼女はページをめくろうとするが、タイミングがカチンコと重なって躊躇してやめてしまう。

彼女の両親が亡くなったときに、墓でホセインを意味ありげに見つめたのは彼女だ。ホセインはタヘレを幸せにしようと思っているし、彼女も本当ならホセインのことは気になっている。けれども家や階級の現実的な面を尊重する中東の婚姻文化では、家も持たず財産もないホセインは結婚対象となりえない。

このままではタヘレは祖母の言う通りに金持ちの老人と結婚することになるし、それは避けられないことは分かっている。早めにホセインのことを拒絶するなら、彼は諦めると思うが、それはそれで彼女なりに想いの踏ん切りがつかない。

だからこそ答えず、黙ってしまうのだ。

このまま答えなければ金持ちの老人と結婚するし、そちらのほうが家にとっては良いと分かっている。でも何度も想いを伝えてくるホセインのことは少し気になっている。けれどもきちんと想いを表明できないから、黙るしかない。個人の恋愛と家や血族としての結婚との乖離、それがもたらすゆらぎ。

だからホセインもどんどんメンヘラになっていくし、彼女の祖母はホセインをタヘレから遠ざけようとする。

単にホセインとタヘレの恋愛についてにとどまらず、これはイランの社会構造や階級制度から生まれてくるリアルなのである。

ラストシーン、あれだけワンカット長回しでオリーブの道を追いかけていくのはダサいし、粋であるし、無粋でもあり、美しい。
ずっと無視していたタヘレが一瞬、ホセインを振り向き、また歩き去っていく。
その後音楽は明るいものに変わり、飛び跳ねるように草だらけの道をショートカットしてホセインが走ってこちらに戻ってくる。

この場面はどのようにも捉えられるが、ジグザグ三部作においてずっと映画の可能性を少しの希望を持って、メタフィクション的形で提示したキアロスタミが、男女あるあるの淡い失恋で物語を締めくくるようにはどうも思えない(『友だちのうちはどこ?』でもハッピーエンドだったしね)。

ふたりの幸せを信じるとするならば、ついにタヘレはホセインの気持ちに何かしらレスポンスをしたのだろうし、悪い知らせだったらその前のシーンのように立ち尽くしているはずだし、こちらに向かって飛び跳ねてくるはずがない。

社会的階級や現実問題を超えて、本当に想い合う男女が結ばれた幸せなシーンであると私は信じたい。

オリーブの林に吹く風が爽やかな名作です。



追記
大地震の起きた二作目から、キアロスタミにとってジグザグ道三部作の構想は大きく変容したように思われる。一作目のように三作をフィクション映画として作るはずが、二作目でモキュメンタリーになり、三作目でもモキュメンタリー的メタフィクションとして制作されている。一作目だけがなんとなく浮いているのだ。私たちの人生は日々変化していて、映画内のセリフにもあったように「明日地震が起きるとしたら一瞬一瞬を大切に生きるしかない」のだと思う。ひと握りのピュアさ、純粋性を追い求めていくようなキアロスタミ監督の姿勢が私は大好きです
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