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東風のskipのネタバレレビュー・内容・結末

東風(1969年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

長文注意笑。
戦闘的映画人たるゴダールによるブルジョワ的表現概念と闘うためにはどうすれば良いかを考察する映画。つまりこれはブルジョワの支配から脱却してあるべき社会主義の姿のもとの映像と音楽をどうすれば作り出せるかを考える映画であります。たぶんね笑。
まずブルジョワ的表現概念のもとにある映画への批判。例をいくつか。
「ボリシェヴィキ映画人は階級の外で映画を作れない。映画は副次的任務であり我々の計画は単純である。プロレタリア革命の視点で世界を見ること。人民が物語を作るのだ。だが西半球のスクリーンでは未だに美男美女が支配している。彼らは感情と本能を強調すべきだという口実のもとにメーキャップに隠してブルジョワの退廃思想と堕落した生活を表現することを強制されているのだ。」
「ハリウッドは映画を夢として提示する。金を払って見る夢だ。だがこの夢が一つの武器でもある。この夢を現実以上にリアルなものと信じさせる。観客を騙すのならなんでも許される。画面の馬を本物の馬と思わせ本物の馬以上にリアルだと思わせる。馬でもないのに。このインディアンも馬上の北軍兵士も本物以上だと思わせる。エキストラを俳優、俳優を登場人物と、そしてその人物の物語を映画という。映画を作ることを演出という。演出では全すべてが可能だ。毎年ハリウッドでは最高の映画監督が選ばれる。帝国主義者的現実の主張が現実自体と直面するのだ。」
社会主義考察であれば図書館に行けばいい。マルクスを読めばいい。もしくは講義を受ければいい。けれどテーマは社会考察ではない。それを「映画」としてどうとらえるのか、映画の考察である。映画で映画について語る。相変わらずというところか笑。
しかし我々の普段見てる映画達がボロクソにいわれており笑えてきます。ニクソンパラマウントやら麻薬とセックスのガキ映画やら。同じものを作り続けた結果の西部劇やら。おいおい私はガキ映画好きだぞー笑。
しかし好きではすまされないんですね。なぜなら映画は映画でとどまらないから。例えばアフリカ。革命により帝国主義者を追い払ったとしても今度はキャメラを通してブルジョワ的支配が押し寄せてくる。物質的な力で社会を支配する階級は映画によって映画の中に支配的な映像を作り出すのだ。
さて社会主義映画考察で欠けてはならないものはなにか。階級闘争である。階級闘争を超える映画はない。そしてこの階級闘争が抜け落ちてしまう人たちがいた。そう修正主義である。スターリンのくだりはついていけず。自分の頭の悪さを恨むね。そんなに範囲の広い話でもないであろうに涙。
話を戻そう。悲惨をみせて闘争をみせない。その映画はブルジョワ修正主義のものでしかない。
さて社会主義から映画へではない。映画から思想へ。映画を革命の武器とするために革命と闘争を通じその闘争と共に考えることを思考し方法を実践しなければならない。つまり映画をもって戦うのだ。支配階級の映像をとらないために。帝国主義的消費やファシストのテロに抗するために。
何をなすべきか。映画を撮り。批判し。過ちを犯し。いくつかを訂正する。階級闘争を続け自己批判を続ければうまくなる。
理論は大衆に届くやいなや物質的な力となる。だから正しい思想を!
具体的立場を考え直し理論の再構築を。
映画は終盤毛沢東の引用で締められた。「マルクス主義の原則は最終的に次の一句に帰結する。造反有理。造反せよ!」世界平和を考えつつ。造反せよ!だそうだ笑。

ブルジョワ文化に死を
ブルジョワの永遠の欺瞞とゴダールは闘う。

この映像は赤色だ。

はい。以上ほとんどが引用でした笑。話はそれほど難しくない気がしました。ついていけてないけれど笑。少なくとも話のテーマは一貫して同じだったし。あとは忍耐と知識量と興味の差かな。
ひたすら喋ってるけれど本と違って映画は戻ることが想定されてないからか重要で同じ台詞は何度も繰り返される。ゴダールの別の映画たのしい知識では終盤映像がなくなったけど今回は映像があるだけましかと思ってたら今回は映像が真っ赤になってしまった笑。あとはブルジョワ文化に死をというシーンで労働者のシンボルの鎚と鎌が出てきたり。相変わらず見てる人に優しくない。というかこれはもう映画ではないな。いや紛れもなく映画でないとダメなんだろうけど。

ちなみに長々と語りましたが昔から国語の点数は悪いです。いつも自己流に解釈してバツをもらっておりました。あしからず。
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