明石です

「A」の明石ですのレビュー・感想・評価

「A」(1998年製作の映画)
4.8
「彼(=麻原彰晃)がどんな人間だろうと意志は変わらないですね。最終的な解脱に導いてくれるのは尊師しかいないと信じているので」

地下鉄サリン事件の直後、元TVディレクターの森達也監督が、崩壊前夜のオウム真理教内部に、手持ちカメラだけを手に潜入し撮ったドキュメンタリー。忖度いっさい抜きで、ピュリッツァー賞とかに値すると思うレベルの、最っ高の映画でした。

サリン事件が起こった時、私はまだ母親のお腹の中にいたので、こうした当時の空気感をそのまま閉じ込めたような良質な作品で時代感を掴めるのはとてつもない幸運。オウムについては、当時放映されていたTV番組や、のちに作られたドキュメンタリー等々で後追いで見てきたけど、いずれもこの作品には遠く及ばない。まさしく時代に立ち会い、この監督の目線でしか撮りえなかった作品に仕上がげておられる。

まず何が素晴らしいといって、オウム真理教を断罪していないこと。マス層向けの情報番組等は、どうしても「オウム=悪」「被害者=善」という絶対的な構図で語られていて、正直胸が悪くなることが少なくなかった。「正義」の立場に立って、オウムという「悪」を一方的に断罪する姿勢に。宗教自体に悪はないし、もっと言えば、宗教に頼るほかなかった多くの人々には何の罪もない。本作で切り取られている通り、彼らが世界の多くが求めていたのは「幸せになる」という誰にとっても平等に望まれるべき望み。

社会に爪弾きにされ、居場所をなくした結果、宗教に居場所を求めざるをえなかった人たちが、麻原と一部の幹部の起こした事件によって、さらに広く、日本中から爪弾きにされる。辛かっただろうなあと思う。最近公開された『わたしの魔境』に描かれていたように、彼ら彼女らの多くは「加害者」でも何でもなく、元はと言えば、幼い頃に虐待されたり会社で虐げられていたようないわゆる社会的弱者で、殺生などとは文字どおり無縁の人たち。信者の彼らにひたすら中立的な視線を向け(それは、彼らの信頼なくしては為し得ないこと)、真実を伝えようとする姿勢に感銘を受ける。

事件が起きた時、真っ先に飛びつくのはジャーナリズム。その後遅れて芸術がやってくる、という言葉があるけど、この映画は、ジャーナリズムよりも早く、深く入り込んだ作品だと思う。芸術とは少し違うけど、一般のジャーナリズムよりもはるかに真摯であることは間違いない。なにしろ作中に出てくる現実のマスコミの人たちの、絵に描いたような横柄さに驚く。コイツらは犯罪者で、自分たちより下の人間なのだというおごり。正義に酔っていたんだろうなあと。犯罪者集団というレッテルを一度貼るや、彼らの多くが、ごく普通の1人の人間なだという事実をこんなにも簡単に忘れてしまう。そして改めて、彼らの横柄さを、教団の肩越しに映した本作の監督の手早さに驚く。本当、劇映画かと錯覚するほどすべてが克明に映し取られてる。警察が信者を不当逮捕する過程もしっかり映されていて、実際、この時のテープがもとで信者の釈放に繋がったとのこと(それも映されてる)。信者たちの信頼をこれほど得て作られた宗教関連の作品が、ジャーナリズム含めほかにあるでしょうか。

警察やジャーナリストには彼らなりの動機(=利益)があるからまだ理解できるけど、作中でオウムの人たちに意見を投げかけるおばちゃんやおじちゃん達一般人を見ているのはとても辛かった。「そんなことやってないで、皆と同じように社会に出て汗水垂らして働きなさいよ」という、おそらくは何らの悪意もないごく常識的な声。宗教団体という、彼らにとって理解できないはずのものに対し、自分たちに理解できる論理でしか語らない人々。皆と同じように働く、それができないから、彼らは宗教に救いを求めてるんでしょうよ、、

作中で”オウム対策委員会”なる組織の掲げた標語が、そうした無理解をよくよく物語っていたと思う。「多くの犯罪を重ねたオウム教は、早期解散し、信者は目を醒まして、現実を直視し、真理を求めよ(全文引用)」私はこういうのが一番悪質だと思う。自分たちでさえ理解できない言葉を他人に向けて使う人たち。その点においては、彼らはたちの悪い宗教家よりさらにたちの悪いことをしているのだということに気づいてない。そうした諸々の背景を経て、終盤で、「オウムのことは色々あるけど応援してます。荒木さん(=オウムの広報部長)個人のことはね」と口にする女性に感銘を受けたよ、、仮にこの問題に”真理”があるとしたら、組織と個人はまったく別物だという点ではないでしょうか。オウムのように、「上」の考えが「下」へ共有されてなかった巨大な宗教組織の場合にはとくに。

この映画の製作者は、本来なら理解できないはずのことを理解しよう(あるいは理解させよう)として真摯にカメラを向けているのがよくわかる。「尊師」の歌が鳴り響くオウムの道場での修行の様子を映した映像がそれを物語っている。当時も今も、この手の「特殊」な修行に嘲笑を浴びせかける人がいるけど、どの組織にも、そこでしか通用しない謎の風習みたいなのはあるもので(私が大学入学して入ったサークルもかなり「宗教的」な感じだったし、新入社員として入ったいやゆる大手企業でも、絶対に外には出せないようなきな臭いことにがなされているのを何度も見た)、彼らは、身を置く環境こそ多くの人と異なれど、彼らなりの信念に従って、至極真剣に取り組んでいたことを、少なくとも私たちは知らなければといけないと思う。

宗教も神様も全く信じてない私が、オウム事件やこの時代の空気感に心惹かれるのは、日本社会に多様性が許された最後の時代だったように思うからなのかなと、本作を見終えて改めて感じた。経済的にとびきり豊かになり、ひとつの価値観では国がまとまらなくなり、「皆と同じ」になれない人が社会を飛び出さざるをえなくなった時代。60年代のアメリカではそれがカウンターカルチャーとして花開いたけど、90年代の日本では、宗教ブームの末のサリン事件というおよそ考えうる限り最も悲劇的な形で幕を閉じてしまった。だから、それが起こる以前の空気感に、心惹かれてしまうのかもしれない。

——好きな台詞
「世の中の矛盾というものに私は幼い頃から思い悩んできた。それに対し、納得のいく答えをくれたのは尊師しかいなかった。だから私は彼の教えを信じる。世間の人はそういうのをマインドコントロールという。もし彼の”罪”が明らかになったとしても、私には、彼の教えを通じて体験したことが嘘だとは思えないし、もっと深い部分で揺るがない」
明石です

明石です