keith中村

幸福のスイッチのkeith中村のレビュー・感想・評価

幸福のスイッチ(2006年製作の映画)
5.0
 安田監督のキャリアはFilmarksのデータベースでは「オーライ」以降しか登録されていないが、私はもっと前の8ミリ作品もすべて観ている。というのも彼女が神戸大学に入学して映画研究部に入ってきたとき、私はその映画研究部「Rick's」に2つ上の先輩としていたから。
 まったくの余談だが、「Rick's」という名は「カサブランカ」の舞台となる「Rick's Cafe」から頂いたもので、名付け親は私だった(っていうか、いくつかの候補から多数決で私の案が通ったんだけど)。あのリックのお店のように様々な人が集まってほしいということで名付けました。
 さらに脱線すると、大学の文化祭でわれわれ映研が出した屋台。おでん屋をやったときに「オデンの東」、ホットドッグの年は「犬・モンタン」と、私が命名したもんだなあ。ああ、なんてつまんない駄洒落なんだ……。

 話を戻そう。彼女の処女作は「乾杯」という、3分くらいかな、もう少しあったかな、の短篇だった。
 久しぶりに出会って「腹を割って話そうぜ」という二人の若者が、本当に互いの腹を引き裂いて、「痛ててて」となるナンセンスギャグ一発ものだった。
 
 そして、本作は彼女の劇場用35ミリ商業映画としての処女作。
 そりゃ、我々映研出身者は狂喜乱舞でしたよ。もっとも、彼女は8ミリ時代から様々な賞を受けていたし、最初に書いた「オーライ」は16ミリで、一見自主映画に見えるんだけれど、ちゃんとテレビ局から発注を受けて製作したものだった。
 だから、本作も「意外」という感じではなく、「いよいよか」と思った。
 
 当然、公開当時も劇場で鑑賞しました。
 元Rick's部員はほとんど行ったんじゃないかしら。みんなで行ったわけじゃなく、めいめいだけどね。

 本作は、企業への勤め人経験のある彼女の、その社会人経験を最大限活かした作品なのですが、ここでいう「社会人経験」とは、バランス感覚的な抽象概念ではなく、まさに「松下電器に勤務して、町の電気屋さんの声を様々に聞いた」という直截的な体験を元に作られていることです。

 今日たまたま配信で観直したんだけど、私も年を取った分、初見時よりさらに素晴らしい印象で鑑賞できた。
 話自体は何でもないような「普通」を描いているんだけど、それは彼女が「普通」をただ「普通」に描くタイプの作家だから。大きな出来事を極力排除する個性の監督だから。
 なので、本作のドラマ性に対して物足りなさを感じる人がいるのも当然だろう。
 
 でも、素晴らしいのは「普通」を描くのに、「映画的演出」がきっちりなされているところ。
 例えば、本作の冒頭は電球を割るシーンから始まるが、つまりそれは、丸かったものが粉々になる描写。
 これは主人公である上野樹里ちゃんの心を象徴している。
 割ったあとのバルブに残ったガラス片のように、彼女の心はギザギザになっている。そして、それは人を傷つける兇器にもなり得るわけだ。
 
 中盤ではその逆のイメージが提示される。粉々というか粒々の米が、餅つきマシーンで次第にまん丸い餅に変わっていくのがそれ。
 これは彼女がまだ心情に変化を起こしていない段階で提示されるわけで、心情変化の予告となっている。
 もちろん、そのような予告がなくとも、着地点がそこに至ることは、この種のセッティングから始まる映画としては自明かつ使命だし、私のように、文字通り餅をこねくり回すような、こんな小難しいことを考えない観客には、その演出意図は感じ取れないんだろうけれど、でも、そういうのが映画演出ってことじゃないですか。だから巧い演出だなあと感じる。
 さらに言うと、この餅つきの場面では、丸くなっていく餅と、それを見降ろす人物たちが何度もカットバックで繰り返されるのだが、これは取りも直さず「彼女の変化を見守っている我々観客」との相似形になっているのですよ。
 まるで「大丈夫ですよ、観客の皆さん。ちゃんと彼女もこのお餅みたいに角が取れますから」と、監督が言ってくれてるみたいだ。そういうところに本作の、そして監督の「やさしさ」が感じられるし、その「やさしさ」こそが安田監督の個性だ。
 なお、冒頭で砕かれる役割だった電球は、終盤では同じ怜ちゃんの手によって、「灯りをともす」という本来の、そして利他的な役割へと変わっていく。

 また、頻出する「乾電池」にも見事な映画的演出が施されている。
 つまり、何度となく台詞に登場する乾電池は、かといって、特別に何かを象徴する意味を与えられずにいるのだ。「何だろう。やたら乾電池乾電池言ってるけど、電気屋さんなのでっていう設定以上のものはないのかな」と思っていると、これが満を持してラストで機能するのです。
 それは、オルゴールのくだり。
 「乾電池のプラスマイナスが逆だっただけで、実は壊れていなかった」という描写は、人の可逆性、いくらでも変われるんだよ、戻れるんだよ、というメッセージのメタファーになっているのである。
 
 新屋英子演じるお婆ちゃんと、上野樹里演じる怜ちゃんの類似性は、中村静香演じる妹の口から序盤で提示されるのだが、このお婆ちゃんの「見え方」が変わっていくところも巧い。
 補聴器を得て聴こえるようになった鳥の声に、お婆ちゃんは耳を澄ます。隣で怜ちゃんも耳を澄ます。
 実は自分だって「周りの声」が聞こえてなかったんだよ、と彼女が気づき始めるのがこのシーンなわけである。
 
 それから、安田監督作品は、本人がネイティブ関西人であり、自らの手による脚本なので、いつも関西弁が実に自然。
 これは役者のイントネーションだけのことではない。本作は主要な役者陣を関西出身者で固めているので、関西弁が上手い当然なのだが、何というか本当に「普通」の会話が「普通」に聞こえる。台詞じゃなく日常会話にしか聴こえない。いっつも、「巧いよなあ」と感服しちゃう。
 
 ことほど左様に、「普通」をちゃんと「普通」に、しかし実は、的確で細やかな演出意図をもって描く作家性は、きわめて貴重なものであり、同じ奈良出身の女流作家である河瀬直美とはかなり違うスタンスなのが、何だか面白いなあ、と考える。あ、どっちがいいとか悪いとかって意味じゃなく、いろんな監督のいろんな作品があって面白いなあ、ということです。
 
 「普通」「普通」って繰り返してきたけど、本作には一か所だけ、超自然的な描写がありますよね。
 超自然的っていうほど大袈裟なものでないけど、怜ちゃんが修理された古いアイロンを発見するところ。
 あそこで、その部屋の蛍光灯がチカチカするじゃないですか。
 あの描写がなくっても、襖が空いているので、「怜ちゃんがふとアイロンに気づく」は描けるのですよ。
 でも、「切れかけでもない蛍光灯が明滅する」という神様の悪戯(aka監督の演出)を描くことで、本作のリアリティ・ラインがちょっとだけ飛躍して、そこも映画的興奮を感じるところ。
 実に見事ですよ。

 以下はまた余談になります。
 題字の「幸福のスイッチ」と「イナデン坊や」は安田監督自身の手によるもので、これは我々彼女を知る人間には、ぱっと見た瞬間にわかるレベル。字も絵もとても個性的なのです。
 「あ~、真奈ちゃんの字だ~」「おっ、真奈ちゃん自分でデザインしたな!」とニンマリできる。
(余談の余談。最近の邦画のタイトルは赤松陽構造だらけ)
 私は、学生の頃に作ったフリーソフトがあるんだけれど、そのアイコンは彼女にお願いして描いてもらいましたですよ。その節はありがとうございました。

 それから、トリビア。
 本作の本上まなみさんは妊婦を演じていますが、本当に本人の妊娠期間中に撮影されました。時を同じくして、安田真奈さんも妊娠されてました。なので、二人のお子さんは同い年。(多分。もしくはひとつ違い。知らんけど)←関西人特権のエクスキューズ

 あと、これは監督がどこまでキャスティングに関与したかはわからなんだけれど、「ジュリーVS樹里」という洒落にも安田監督の笑いのセンスを感じる。
 長い付き合いだけれど、これの真意は聞いたことがないなあ。
 いや、本人の前で本人の作品の話をするのは何だかとても気恥ずかしいので、ほとんどしたことがないのです。
 今度ちゃんと聞いてみようかな。

 ともかく、ぜんぜん他人事に思えなくて、今まで本作のレビューは怖くて見たことがなかったんですが、これを投稿したら、みなさんのも読んでみよっと!
 ドキドキ!

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2022.11.16(約2年後の追記)
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 思い切って先日、安田監督に本レビューを読んでいただきました。
 で、いくつか本人から直接賜ったトリビアと訂正。

・タイトルは安田監督の自筆だけど、「稲妻坊や」(「イナデン坊や」に非ず)は男性デザイナーさんの手によるものだそうです。安田監督自身のイラストにものすごくテイストが似てるので、自筆だと思い込んでました。
・当初のタイトルは「プラス、マイナス」だったとのこと。
・撮影は2006年2月から3月の頭。ロケ中は本上さんも安田監督も妊娠されてなくって、撮影後に授かり、お二方実に1日違いで同年年末にご出産だったようです。
・「ジュリーVS樹里」キャスティングはダメもとで監督が掛け合ったらジュリーがふたつ返事で引き受けてくれたそうです!
・監督の新作「メンドウな人々」、クランクアップしました! 来年3月に地上波放送、以降劇場公開予定です!