このレビューはネタバレを含みます
冒頭の向日葵のシーン。
太陽のある方に花を向けるという性質を持つ向日葵だけれど、もし、太陽がふたつ、あったとしたら、そのとき、向日葵は、どの方向を向くのだろうか、ということが示される。
向日葵は男。ふたつの太陽は妻と愛人。
彼は妻とこどもと満ち足りた生活を送っていたのに、偶然出会った女性と愛人関係になる。
家族の習慣であるピクニックにて、なにひとつ、自分が悪いと思うこともなく、妻に「僕は、新しい幸福を見つけた」「君のことを好きだという気持ちは何も変わらない」「僕のことをもっと愛して」と打ち明ける。
このあとすぐに、「植物」のような控えめな女性であった妻と、「動物」的に愛し合う。「動物」的な要素は、元々は愛人の性質だったのだけれど。ここで、妻と愛人のふたりの女の境界線が一気に揺らぐ。
そのあと、妻は、おそらく自殺してしまったのだけれど、男は、妻が自殺をしたとは一切考えることがない。事故死だったという男の想像が映像として流れる。
男は、ちゃんと悲しむ。そこに偽りの気持ちはほんとうにないように感じる。だけれど、そこがとてもグロテスクだ。妻の感情に対する想像力がまるで皆無なのだ。自分のせいで妻が死んでしまったかもしれないという考え方は根本からない。
結局、妻と入れ替わるように、愛人が家庭に入り、生活は続いていく。前と変わることのない、幸福な生活。いつものピクニック。変わったことといえば、家のインテリアと、家族のファッションくらいだ。目に見える外側の部分だけが、見事にすり替わる。
妻は交換可能であり、幸福な生活もまた、失ったものを補填すれば、安心で、安全に続いていくのだ。
この映画は、幸福の外観を描いたものであり、幸福の本質を描いたものではない。
かわいいインテリア、かわいい色遣い、きれいな自然。それらは印象派の絵画のように、多幸感と共に描かれる。
だけど、美しく彩られた幸福の、その中身はどうしようもないほどに腐りきっている。
memo
・部屋に飾られる綺麗なお花のシーンが強調される。幸福の象徴。お花は時間が経てば枯れてしまうけれど、枯れればまた新しいお花を買ってくれば元通り。
・男が愛人に書くラブレターの書き方がかわいい