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フォレスト・ガンプ/一期一会のotomisanのレビュー・感想・評価

4.2
 死期を悟ったジェニーが最後の止まり木にフォレストを選んだのが愛ゆえか経済力ゆえかはともかく、鳥のように飛び続ける夢に疲れ切った挙句であろうとは想像できる。闘病で困窮し暮らしが荒む前に信頼性の高い友人、おそらく唯一友人と確信できただろうフォレストに息子と共にすがるのだ。
 当のフォレストは懐具合など関係なく、トラブルに打たれ続けてきたジェニーを受け入れ彼女の異心、ふたごころなどその胸中を探ろうとは思いつきもしない。と、それはフォレストの人となりを2時間眺めての感想で、サベナのバス停での彼の合衆国と共に歩んだ三十数年の回想はそのためにあったのだ。

 ジェニーがついに追い込まれるまでフォレストを遠ざけたのも、若者による新時代を迎えて、自分と共に飛び立つことのないフォレストを見限らざるを得なかったためである。それと同時に若い日のジェニーにとってフォレストの異質さからは生活と子育てとふたりで一つ事としてこなす上ですれ違いを幾多も想像できたためでもあろう。
 他方、女性の社会的地位が向上する中、多くの譲りたくない事が夢を後押ししてジェニーをフォレストから遠ざけたのだ。しかし、それでも彼女がフォレストを相手と望んだのもその娘か息子かの傍らにありたかったためである。まだ「エイズ」の「エ」の字もない頃、それさえなければジェニーの彷徨はいつまでも終わらないような気がする。むしろ、そうして意地を貫き通して早世したジェニーの子がいつか、老齢に達したフォレストを訪ねるのを想像していたのだが、監督はより困難な道を提示する。

 ジェニーの早すぎる死は彼女に過大な後悔を負わせない情けだ。82年当時まだ名もなき「エイズ」だがフォレストも当然ジュニアもすでに感染しているとは想像に難くない。12年後、フォレストガンプ物語が広まった当時もその治療は対症療法ばかりの手探りである。抗エイズ薬の光明が射すのもまだ数年先、こんなきな臭さを観衆のこころに残してフォレストの顔色もさえない。しかし、その胸中はやっと巡り合えて一年足らずで逝ってしまったジェニーを悼む思いしかない。
 実に12年後の観衆だけが残された彼らのその後を知っているのだ。しかし、フォレストの三十数年を間近にしてきた人なら彼がこの困難をものともせずにまた走り出す事を分かっているだろう。

 走り出して何を始めるかはフォレストなる人の事ゆえ誰にも知れまいが、アメリカ人なら神は走り続ける者、あきらめない者だけに微笑むと承知してしまうかもしれない。そんないわれによって、フォレストは「アメリカン・ドリーム」では無く、アメリカ人の仰ぎ見る「夢の人」というべき者なのだ。
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