おいなり

スパイダーマン2のおいなりのレビュー・感想・評価

スパイダーマン2(2004年製作の映画)
4.0
「ヒーロー映画」というジャンルが市民権を得たのは、まだ比較的最近のこと。
特にティム・バートンがダークでゴシックな「バットマン」を撮るまで、マント姿やマスクのヒーローが登場する映像作品というのは、漏れなく子ども向けの娯楽作品だと思われていた(むしろ、その後のバットマン映画が辿った顛末を見れば、かの映画のヒットがあってさえ、ヒーロー映画=子ども向けという風潮を払拭出来なかったと想像できる)。

老若男女だれもが、コスチュームを纏ったヒーローに夢中になっている現代からすると信じ難いが、バットマンにせよ、仮面ライダーにせよ、それらは多くの大人にとっては思い出の中だけで語られるものだった。ああ、そんなのあったね。子どもの頃よく見てたよ。……というふうに。



MARVEL作品がまともに実写映像化され始めたのは、20世紀も終わりの頃。皮肉なことに、MARVELコミック社の倒産に端を発する権利の売却により、「ブレイド」や「X-MEN」といった作品が様々な映画会社によって作られるようになり、MARVELのヒーローはそのブランド価値を大いに高めた。サム・ライミ監督による「スパイダーマン」もそんな作品群のひとつ。


スパイダーマンが革新的だったのは、まずそのワイヤーアクションや、CGを駆使した映像。ヒーロー映画など子ども向けだと揶揄する声など耳も貸さず、大量の資本を投下して作られたその映像は、実写化不可能と言われていたスパイダーマンのスイングを爽快に描き切った。マトリックス以降、スローモーションをふんだんに使って動きを見せるアクションが増えていた中で、スパイダーマンの「スピード感」は、映像体験としては確実に頭ひとつ抜けていた。

その上で、ナイーブな青年の「変身」という、普遍的で共感しやすいテーマを中心に据えた物語は、シンプルで飲み込みやすい。
ヒーローといえば超人然とした正義漢という、自分とはかけ離れた人のイメージが根強かった時代に、同じ目線の高さで時に間違い思い悩む等身大のヒーロー像は、誰しも心に秘めた「ヒーローへの憧れ」を体現しているように見えた。

もし自分にもあんなチカラがあったら……
朝目覚めてムキムキになってたら……
憧れの女の子とドラマチックなキスができたら……

そんな思春期の「憧れ」を、スパイダーマンは心地よくくすぐってくれる。



一見すると明るい雰囲気の本作だが、このサム・ライミ版スパイダーマンが秀逸だったのは、その裏側に「過ぎたる科学」という後ろ暗いテーマが隠されていたことだろう。
まだ2000年問題なども記憶に新しい当時。科学技術やAIの進歩というのは、人を豊かにする物である反面、使い方を誤れば人類に牙を剥きうる存在だということは、それこそ大昔から繰り返し創作の世界で描かれ続けてきた命題だ。

本シリーズのヴィランであるグリーンゴブリンや、ドクターオクトパスといったキャラクターは、自らの科学知識を過信し、その結果として怪物に堕ちていく(3作目だけ浮いているように見えるが、監督は当初、科学者のヴァルチャーをヴィランに希望していたそうな)。
しかし、元を正せばスパイダーマン自身も、遺伝子操作された蜘蛛がその能力の由来だ。
スパイダーマンがコミックとして誕生した当時に、果たしてそこまで意識されていたかどうかはわからないが、少なくともこの映画シリーズにおいては、科学の力が善良な人を狂わせ、社会を脅かし得ることを明確に描いている。

まさに、「大いなる力には大いなる責任が伴う」だ。素晴らしい力も、使い方次第で救いにも脅威にもなる。それをヒーローとヴィランの対立構造に準えることで、スパイダーマンのテーマの再解釈に挑んでいるのは、なかなかにクレバーだと思う。

また、スパイディを星条旗とオーバーラップさせるカットが毎回お決まりで登場するのを見て分かる通り、テロで大きく傷ついた国を立て直そうとする人々に勇気を与えるという意図も、多少なりとあっただろう。
人々の共感を呼び、時に勇気づける。そんなヒーロー映画の意義を問い直したという意味でも、本シリーズが後世に果たした役割はとてもとても大きい。



とりわけこの「2」は、有名な電車上での対決に代表されるアクションシーンの出来の良さ、当たり前の幸せを犠牲にしてヒーローを続けることに思い悩むピーターの葛藤、冴え渡るスリラー風の演出、すべてが1よりグレードアップしていて、今でもヒーロー映画の中では5本指のひとつ。アイコニックなドックオクが最新作でメインヴィランとして復活するのも納得です。
暴走列車を止めるために力を使い果たしたピーターを乗客が運ぶシーン、なんか観るたびにジーンと来ちゃいますね。
おいなり

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