怪獣映画の原典。
何度目かの見直し。
戦後9年、第五福竜丸の事故直後という生々しさが残る中での上映。
ある者はゴジラの襲来を水爆の生ける象徴だといい、
ある者は空襲になぞらえ、
またある者は南太平洋に消えた英霊たちの行き場のない魂だと言う。
赤坂憲雄
「『ゴジラ』の基層には、おそらく無意識の構図として、戦争末期に南の海に散っていった若き兵士たちの、ゆき場もなく彷徨する数も知れぬ霊魂の群れと、かつてかれらを南の戦場に送りだし、いま死せる者らの魂鎮めの霊力を失ってただの人間にかえった、この国の最高祭祀者とが、声もなく遠く対峙しあう光景が沈められているはずだ。」
たしかに最初のパーティをする船の前に現れるゴジラは戦後の享楽主義への怒りにも見える。
空襲や英霊を暗示するかのやうに、ゴジラは決して皇居を踏むことはない。
だが、祈りを捧げる現人神はもう皇居にはおらず、魂が鎮まることはない。
途方に暮れたゴジラは皇居を踏みさることなく、科学に滅ぼされていく。
→まだ科学に対しての信頼があった証左だろうか?
そういったゴジラに対して、人々ができるのは、台風や地震などの災害のように耐えて過ぎ去るのを待つだけ。
魂が鎮まることはないから、ゴジラは何度も何度も日本に襲来する。
そして、いつしか、ゴジラがなぜ日本に襲来するのかの意味すら忘れられる。
そして、また、日本で放射能の災害が起きるたびに、思い出さられる。
原子力(科学)がもたらす災厄が降り注ぐたびに、我々はゴジラとシン・ゴジラを思い出す。
来年で、東日本大震災から9年を迎える。
大昔、平安期の貞観地震9年後、関東を巨大地震が襲った。
忘却と記録の狭間で我々を何を見るだろうか?