ぶぶこ

日本の青空のぶぶこのレビュー・感想・評価

日本の青空(2007年製作の映画)
3.5
内容などについては、公式サイトをご覧くださればいいと思うのですが、簡単に言うと、ある出版社の派遣社員がひょんな事から雑誌の「憲法問題」の特集に関わっていき、そこで鈴木安蔵(やすぞう)なる民間の憲法学者が描いた「憲法草案」がGHQに影響を与えたという事実を発掘する・・・という筋書きです。
映画での描写は、ちょっと僕でも気恥ずかしくなるような、典型的な「左」っぽい描写があったりして、少し閉口したのですけど(つまり、あまりにもベタだったのです。もうちょっと間口を拡げた方が・・・とお節介ながら思ってしまいました)、これはそのようなベタな表現を取らざるを得ない監督をはじめとする制作者側の危機感の表れだと捉えました。僕がここで「危機感」といったのは、つい先日、内容が「偏向」しているということで東京都調布市の教育委員会がこの映画の上映会の後援を拒否したというニュースを見たからです。まあ、これは恐らくどこからからやってくる「ゴタゴタ」を恐れるお役所体質からでしょうけど(最近、ちょっと「左」っぽいイベントや、在日コリアン関連のイヴェントを公民館が拒否、などというニュースをいくつか聞きますし)、とにかく、この程度の穏健な映画に対しても神経をピリピリせざるを得ない世の中であることは確かなのです。

映画についていうと、この映画の肝である「終戦直後の憲法委員会の再現ドラマ」がやはり出色でした。終戦直後、かつて治安維持法などで辛酸を舐めた学者や文化人が集まった会合で、鈴木が活動する「憲法研究会」が結成されるのですが、その他にも熱に浮かされたように全国のあちこちで多くの人々(政党も含めて)が憲法を考えた、という事実は、やはり忘れてはならないものでしょう。
キャストに関して印象をいうと、「再現ドラマ編」主役の高橋和也も、なかなか味のある男闘呼男になったなあ、と思いました。妻役の藤谷美紀も、いい年の取り方していると思いました。あと、白洲次郎役の宍戸開は、「あ、彼はこうして白髪にしてみると格好いい」と思ってしまいました。まあ、美味しい役柄だからそう思ったかも知れないですけど(なんたって白洲次郎だし)。
で、「現代編」の主役の田丸真紀は、スタイル良過ぎ(笑)。やっぱ、元モデルは違います。でも編集長役の伊藤克信の大袈裟な芝居を含めて、抑え気味の「再現ドラマ編」とのコントラストがちょっときつかった、と思ってしまいました。

さて、この映画では、鈴木たちの構想がGHQの憲法草案に決定的な影響を与えた、つまり現行憲法はアメリカからの「押しつけ」ではなく、日本側の意向も大いに反映されているのだ、ということを論じています。勿論、僕は「なるほど」とも思い、GHQに感心されるくらいの草案を書いた鈴木たちの努力と能力に対し、敬意を表しますが、いわゆる今論じられている「押しつけ憲法論」に対してどれだけ有効か、疑問だなあと思いながら見ていました。押しつけ憲法論(改憲論)者は、「鈴木たちのを参考にしたといっても、短時間でそれを翻訳してGHQが押しつけてきたというのは変わらない」というでしょうから(まさか鈴木たちを「非国民」だから日本人が考えたものとはいえない、とはいわないでしょうけど)。
でも、映画の中ではもう一つ重要な描写がありました。それは、最初GHQから命令されて、大日本帝国憲法を改訂するようにと言われていた松本烝治大臣(この人は元東大教授で法学博士なんですよね、実は。ちょっと前に読んだ丸山眞男の回顧談でも、憲法制定時の東大法学部の教授たちの動向が語られていたのを思い出しました)をはじめとする政府首脳部の「頭の固さ」です。いわゆる「欽定憲法」における天皇の地位について、頑として譲らず、これがGHQとの溝になったことがしっかり描かれています。僕は実はこちらが重要ではないか、と思っています。一言で言うと、「押しつけられるような事態を招いた責任」ということです。この辺りについて、英文学者の中野好夫が既に40年前、こう指摘しています。

とにかくこんなふうに、まことに情けない、いわゆる「押しつけ」ということになったわけです。が、わたしはもう一度申し上げたいのです。もしあのとき、松本さんだけでなく、日本の支配層の人たちが、なんとか現状維持にキュウキュウとする上層の声ではなく、むしろ明治憲法の乱用によって大きな犠牲を強いられたほんとうの国民の声に耳を傾けていたならば、まさかあんな松本案というものはできなかったでしょうし、またそうであれば、いろいろめんどうな折衝、修正はあったかもしれませんが、まさかかれらとても欲しなかった「押しつけ」などにはならなかったろうと思えるのです。くりかえし申しますが、事情はどうあれ、「押しつけ」みたいなことになったのは、ほんとうに残念でもあり、情けないことだと思います。だが、それには「押しつけ」たアメリカを責めるのもいいが、それよりも前に、まずそうした情けない事態に立ち入らせた、敗戦によって何物も学ばず、何物も忘れようとしなかったわたしたち自身の支配層のものの考え方に、まず責任の尻をもっていかなければならないのではないでしょうか。(中野好夫「私の憲法勉強」、『中野好夫集 Ⅲ』筑摩書房、1985年、p.182。原著は1965年発行)

全く同感。ついでに言うと、僕は「いい物を押しつけてくれてありがとう」と考える「押しつけ憲法論者」ではありますが(笑)、この60年、この憲法は常に有効に働き、そしてそれを国民も認め続けてきた重みがあると考えています(押しつけ憲法が日本の国情に合わないのでしたら、とっくに改憲されていて然るべきでしょう)。今のところ、まあまあうまくいっているものを無理に変える必要性をまず感じませんし、そもそも憲法のせいで日本人の「品性」が悪くなった云々というのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」くらいの信憑性しかないと思ってもいます。
というわけで、ベタな描写にちょっと照れつつも、改めてベタに戦争放棄条項は「護持」すべきと思いました。今やこれこそが日本の「国体」なのですから。

(追記)
この映画の大澤豊監督って、「GAMA―月桃の花」の監督でもあったんですね。僕はこの映画、まだ見たことがないのですが、沖縄研究者の佐藤壮広さんからこの映画を教えられて、チャンスがあれば見ようと心にとめていたのでした(余談ながら、昨年12月末の出張の夜、僕が佐藤さんに連れて行かれた那覇の飲み屋で、この映画に関わった方が偶然いらして名刺を交換する、というハプニングがありました。これもあって憶えていたのです)。
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