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塔の上のラプンツェルのmuscleのレビュー・感想・評価

塔の上のラプンツェル(2010年製作の映画)
5.0
母が、母と名乗っていた女が消えていく。その消え方が絶妙すぎて感心した。マントの中にモフッと、はじめからいなかったみたいに消えていく。そりゃ誘拐していたことで犯罪者だし、ここに救済を出してしまったら罪を肯定しちゃうことになっちゃうんじゃない?って思うし、一人の人間(ラプンツェル)の人生を文字通り消費していたわけだから、そことのバランスでの救済がナシになったっていうのも納得いく。
それでも、あの偽母は偽母で純粋に夢を追いかけていたはずなのになぁ…っておもってしまう。ラストで殺人も犯してたであろう盗賊たちの夢があっさり救済されてしまうこととそれほど違いはあるんだろうか。
だから、最後にラプンツェルが男に結婚しよってせがんでいたことが当の男の口から明かされるとこで想像力をそそられてしまう。偽の母親と学校に行けず教育もない中、偽の母と二人で猛烈に手遊びとか二人遊びを考えて遊んでたりしていたはずで、その楽しかった記憶を必死に「誘拐犯に誘拐されていた日々」だったとして思い出さないためにオトコにプロポーズしてもらうようせがむ。些細だけど、人生への感度が濃縮されすぎている。こういうところでトラウマちっくに描かれてないのがかなり複雑さを想像させてグッとくる。オトコとの結婚生活のなかでフッと塔の上での日々を思い出したりとかしたり? じつはそこで母のいない間、ひとり遊びに耽ってました…みたいな想像を喚起させないためにイマジナリーフレンドみたいな"カメレオン"が配置されてる。カメレオンは常にいつもどこかにいて、どこにもいない。カメレオンが物言わず、色を変えることができるってのがミソで、主人公もまたカメレオンのように髪を切り、あっさりと色を変えて、規範を変えて別の誰かになりながら生き延びていく。
そこで灯籠ってなんだろうって考えたら、灯籠も燃え尽きて消えてしまう儚さ、その場での強い願いみたいなもので、救済された時点でいなくなった娘への強い思いが託された灯籠の祭りとそれを見ていた娘の日々は結婚後の生活と引き換えに役目を果たして消滅するだろう。もちろん、それもそれでいいことかもしれないよね。いなくなった、死んでいると思われていた娘が帰ってきたのだから。でも観客は、灯籠のまわりを周遊するカメラの一大3Dスペクタクルにこそ目を奪われていた。だから灯籠祭がなくなったであろうところで映画は終わっていく。でもやっぱり灯籠をもう一度見たいと、あの景色は、あれはどうなったの?って思っちゃう。観客はスペクタクル中毒だから。



誘拐したのが男だったら、BLEACHを延々誘拐した不登校女子に読ませてた中年男性の話になるなーとか思いながら見てた。
これで誘拐したのが若さのためだから、それは独善的な中年女性の欲望とすり替えられることでどこか危うい複雑さを手にできてるけど、いなくなってしまった子供のために灯籠流しが国を挙げて祭りとして行われてる…ってやっぱり拉致被害者の催しみたいだ。
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