矢吹

怒りのキューバの矢吹のレビュー・感想・評価

怒りのキューバ(1964年製作の映画)
4.6
この映画見てから、他の映画を見る時にね、なんか熱っぽいというか、頭がぼーっとする瞬間があるというか、完全に当てられた。当たらされた。
正直、面白がらなきゃいけないって言う気持ちもあります。この作品を、面白いと感じる場所を脳みそに作っておかないといけないと思う。
全人類の美学にインストールしておかなければいけない。
つまんなくても、それをつまんないって言うのがむしろ恥ずかしいことだと言う社会的な感覚は、確かに悪しき伝統をたくさん生み出してきたけど、一種、もはや必要悪なのならば、その親玉は、この映画でこそあるべきで、文化はここで征服されてしかるべき。
エンターテイメントとして描かれた部分が1秒もなかった可能性がある。
見る人への安易なサービスなんて1マイクロメートルも許されちゃいない。
むしろ、芸術の最低限がここ。っていうね。
より伝えるため、さらにより、伝えるために、追求に追求を重ねた映画が、この形なんじゃないか。っていう気持ちになった。
お前の今している仕事は、果たして妥協を許していないのか。と、問いかけられた気もして、余計なお世話だ、とも思った。
例えば、海に投げ込まれた、生まれたての子犬が、本気で生き残るために、結果的に編み出した、必然的な「犬掻き」の、なりふり構わぬ美しさ。とか。
この色気と活動写真の脈動。
フィルムの回る音がする。
伝説のワンカットしか知らなかったけど、
伝説のずっとじゃないか。
サッカーのスーパープレイ集みたいにね、毎カット毎カットが、工夫と驚きの連続。
見事すぎて、あわや隣の人とハイタッチするところもあった。

私はキューバ。
血で育ち、涙で波打つキューバ。
カストロと1950年代。

目に焼きついたのは、
十字架と、雲の形と、焼け野原。
あの映像が、本当にこの世の世界とは思えない事実は、人が祈りを信じるのならば、存在してはいけない美しさなわけだから。あえて言うけど、大好きなシーンになった。
あの時の子供は今も、同じ世界に生きてるんですよ。

私はキューバ。
その声が、一人の演説に変わり、キューバは民衆に変わる。桑が銃に変わる。
命を奪うためじゃない。過去を亡くすために。
未来を作るために銃を持つ。
コロンブスから始まったアメリカの奴隷の歴史を重ねて、星の道か、奴隷の道か。
潜り抜けてごちゃ混ぜになっていく組織と個人の戦斗。
人の数の圧倒的パワー。
都市部と農村の差もまたあれど、炎は燃え広がる。
この蓄積。静寂の意味。
スナイプと、爆撃ね。緊張。
あの時、引けなかった引き金を、彼を突き動かしたのは、果たして、自分の意思であろうか。
もっと大きな、何か、覚悟と責任も見てしまう。
やはり、人間は、どうしても、人間っていう環境なんだろうなと思っちゃいますね。
私たちはキューバだから。

音楽の音源をしっかり写し込むやつ、ロングテイクなら絶対やりたいよね。
ビラが舞うシーン、パクるし、トンネルを抜けるところもパクる。
トントントンの音の響き方も半端じゃねえ。

最初の説明文って各国自由なんですかね。
二重の音声の色気は、サイレント映画の呼吸。

ここには学校が必要ってセリフがあって、今、教育が必要だ、と言えるのは、現在がその段階だからだけど、それはそれで、ちゃんと進めないと、過去に失礼だろうから、みんなで頑張りましょう。
私もキューバだよ。

セルゲイウルセフスキー。ね。
日常会話で、ウルセフスキーって使っていい権利をついに、得ました。
行使しないけどね。
矢吹

矢吹