Manabu

眠り姫のManabuのネタバレレビュー・内容・結末

眠り姫(2007年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

七里監督はこの映画を音(サウンドトラック)から制作している。二年かけて音作りをし、映像に二ヶ月費やした、という事だった。

率直な感想として、作られた音の物語に映像を当てはめる事で、音の物語が持っていた広がり/奥行きが可視化、映像化され、イメージが限定してしまい、窮屈な「状況説明」としての映像に落とし込まれてしまっている。という事だった。

更に『闇の中の眠り姫』における5.1chのサウンドシステムは空間を拡張する為には、ものすごい威力を発揮する装置だったのだが、それに対し1対1の(わたし、対、音発信機)の関係は非常に限定されすぎて、平べったい音で気持ち悪かった。(劇場に設置されたJBLのサウンドシステム自体は素晴らしい音像を産み出すのだが)

『闇の中の眠り姫』は暗闇で『眠り姫』の音だけを体験する「装置」としての作品で、非常に異空間体験として得難い体験をした。
例えば、車で富士山をドライブした帰りに偶然にも富士の樹海を、真っ暗闇の夜の帰り道に通ってしまった時の体験。車の窓越しから見える向こう側の闇は「見えない得体の知れない本物の恐怖」として、自分には予測不可能な未知なる恐怖として映る、強烈な体験だったのだが(この時、車の窓ガラスがテレビ画面/レイヤーとなる)これが映像で再現されてしまうと、その恐怖の1割も伝わらないだろう。それは「状況説明」になってしまうからだ。
想像できない、見えない恐怖。それこそが最も恐ろしいのだ、という事実。

『眠り姫』の中盤、「朝起きたら外は雪だった」という台詞がでてくるが、それに対応して画面に映る雪景色の街の風景。これでは完全に言葉の持っている力を閉じ込めてしまうのだ。その力とはもちろん「想像力」である。

私はラジオドラマが好きで、よく拝聴するのだが、やはりそこにあるのは、「絵面を想像する楽しみ」なのだ。

つまり、映像とは何か?という答えに対して「映像とは、状況説明である」ということができる。かもしれない。

逆に、完成された音の作品には、はたして映像は必要ないのではないか。というのが私の意見/仮説其の1であった。

より深く考察していきたいと思う。

作品の内容自体は、生と死をテーマとする、非常に感慨深いものがあった。

※1「眠り姫」は音響系の映像に興味のある方には是非ともオススメの映画です。

※2 岸田今日子さん朗読の「銀河鉄道の夜」をはじめて拝聴した時の、あの感動に近いものがありました。

(2014.04.25.UPLINK)
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