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十二人の怒れる男のnoteのネタバレレビュー・内容・結末

十二人の怒れる男(1957年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

ニューヨークの裁判所。18歳の不良少年が実父殺害の容疑で裁かれようとしていた。12人の陪審員たちは評決の投票をするが、ただひとり陪審員8番だけが無罪を主張し、改めて審議が行なわれることに。それでなくても疲れきっていた11人は苛立つのだが…。

配信で見つけ、何度目かの再鑑賞。
レジナルド・ローズ脚本の傑作テレビドラマを映画化し、社会派シドニー・ルメットが映画初監督を飾った作品。

知っている話なのに、グイグイと惹き込まれる。
二転三転した上にどんでん返しの練られた脚本、役者の熱のこもった演技、根深い人種差別批判の社会派なメッセージや普遍的な道徳心…etc。
見どころが多いためなのだろう。
やはり映画史に残る傑作の一つである。

蒸し暑い部屋にうんざりし、この後の予定のことを考え、審議を早く終わらせたい他の陪審員たちは異論を唱えた8番を責めるが、「証人は目撃者の女性と物音を聞き、逃走を目撃した老人だけ。この2人の証言が間違っている可能性もある」と反論。

目撃証言がある貧民街の殺人事件。
陪審員たちが語る検察側の論述だけを聞けば、見ているコチラも「貧しく学もない少年は父親の暴力に耐えかね、怒りに任せて殺してしまったのか…」と不憫に思うが、既にそう思ってしまうことが上から目線の差別なのだと気付かされる。

「スラム街出身の少年なのだから嘘をついているに決まっている」と(見る者と同様に)決めつけている他の陪審員には「証人の女性もスラム街の出身なのに、どうしてそちらの意見は信じるのか?」と8番は引かない。

こうして陪審員室の中では、犯行の状況を検証し直す作業が始まる。
少年の未来に関心のない8番以外の陪審員たちは、うんざりして8番を責め立てる。

すると8番は「再び評決をとり、自分以外の全員が有罪と思うならもう反論はしないが、逆に自分以外の誰か1人でも無罪だと思うなら議論を続ける」と譲歩案を出す。結果は、有罪10票・無罪2票。

無罪に投じたのは、8番の熱意に心を動かされた老人の9番の陪審員だった。
再び議論が行われることになり、8番は証言に対する反対の意見をあげていく。
細かすぎると指摘する他の陪審員たちに対し「人の命がかかっている大事な議論で細かく考えるのは当然だ!」と言い返す。

そう、誰もが他人事としてしか考えられなかったのだ。
もし自分や自分の子どもが被告の立場だったなら?と考えてもみなかった。
それは共感的立場で物事を考える道徳心の欠如に他ならない。
「人の命がかかっている」と言われるまで、雑談をしたり、不謹慎に落書きをしたりと呑気に構えている陪審員と同様、呑気に陪審員同士の言い争いと判決の行方を楽しんでいた見る者の目を覚ます。

被告の少年が画面に映るのは冒頭の一瞬だけなのだが、弱々しい小型犬のような顔立ちが目に浮かんでくる。
簡単に有罪(=死刑)にして良いのか?と8番の話に耳を傾けていく。

凶器のナイフは、スラムならどこでも買えるような代物だと同じものを見せる8番。
被告だけが持っていた確証は無く、他人の犯行かもしれない。
物音を聞いた老人の証人は逃げる被告を目撃したというが、かなり年老いた老人のスピードでアパートのドアを開けて被告を目撃するなど時間的に無理だと部屋の見取り図や実演から判明。
そもそも被告の向かいに住む女性証人が、列車が犯行現場の窓の外を通過していたとの証言と照らし合わせると、犯行の物音など聞こえるはずがない。
8番の理論的説明が実に見事。
これを誠実そうなヘンリー・フォンダが語るのだから、形勢は一気に傾く。

証人の証言を見直していくうち、矛盾点があることに気づいていく陪審員たち。
1人、また1人と無罪に主張を変えていき、再度評決を取り直すと、有罪が3人に対し無罪が9人になる。

すると、これまでずっと有罪を強く主張していた10番が「ヤツらがどんな人間かを知らない」と少年への批判を強める。
だが、非行少年ナイフの使い方をスラムに住む5番が説明すると、その無知が露呈。
スラムに住む移民差別ばかりを述べる10番を他の陪審員が無視。
彼は陪審員が集まる机から離れて座り込んでしまう。

有罪を主張する3番と4番は事件を目撃した女性の証言は無視できないと反論。
しかし、そこで9番がメガネを取って鼻筋を擦った4番を見て、女性の証人にはメガネの鼻あての後があったことを思い出す。
事件があったのは暑く寝苦しかった深夜。
証人がたまたま起きた時、通過する列車の窓から事件を目撃したと言うが、その時にメガネをかけていたとは思えない…。
4番も9番の主張を飲み込む。

そして最後には、有罪を主張し続けるのは3番の陪審員だけとなった。
3番は理不尽な態度を変えず「少年が死ねばいい」と泣き出す始末。
3番は喧嘩別れした自分の息子を被告に重ね、理不尽に罰を受ければ良いと有罪を主張しているだけだった。
3番は子供の写真を破り捨て、少年の無罪を認める。
遂に全員の意見が「無罪」となり、審議は終了する。

11対1からの大逆転劇。
見るたびに思うのは、鑑賞時の自分の気持ちや精神状態が12人の陪審員の誰かと一致するため、見るたびに「没入感」があると感心してしまうこと。

仕事や予定に忙殺されている時は、野球の試合を気にして判決を軽んじるジャック・ウォーデン演じる7番が自分だと感じて反省するし、仕事で大役がある時はマーティン・バルサム演じる1番のように何とか話をまとめる苦労に感情移入してしまう。
今回、久しぶりに休日の鑑賞だったため、フラットな気持ちになり、8番の熱意に賛同する9番の心意気に賛同した。
それぞれの事情が見る者に「あれは自分だ」と思わせるほどにキャラクターがそれぞれ立っている。
脚本以前に人物設定の巧さがあることに気がついた。
いつ、いかなる時でも没入して見ることができ、モラルを揺さぶられる作品である。

脚本が良ければ、シチュエーションを限定しても充分に一本の映画として説得力のあるものが作れるという見本のような作品だ。

蛇足ではあるが、2024年の今観てみると、現在と違つた気になる部分に目がいく。
陪審員に男しかいないこと、また陪審員にアジア系やアフリカ系がいないことは現代ダイバーシティやポリコレの風潮に合ってはいない。
喫煙率が高いのもそうだ。

逆に変わらない部分にも目がいく。
スラムの人々への差別が激しい格差社会。
移民の国なのに、新たな移民を格下に見るヘイトの構造はSNS時代の今も変わらない。
時代の進んでいるところと、変わらないところが見えてくるのが面白い。

いくつものリメイク作品があるのだが、いずれも面白い。
今後はどのように時代にマッチさせた作品が出てくるのか?
原点の偉大さに改めて感心した。
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